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金色の空  作者: 古流
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73  かすみの幕、を

 定信義市は東条紗枝と由香里の父との関係を漠然と考えていると、心が萎れて行くのをどうすることも出来なかった。

 東条紗枝の姿を思い描いた。

 初めて会った小学生の時から高校で驚きの再会をしたことなど。少なくとも教師と生徒の関係から逸脱することはなかったが、東条紗枝の肢体に時めき、謎めいた微笑に戸惑いを覚えたのは事実だった。二人だけで行ったツーリング。偶然とはいえ定信にとっては忘れられない出来事であった。

 携帯電話に目を通すと三平からも由香里からも連絡のメールが入っていたが、何故か、定信から連絡をとることが出来なかった。

 午後九時を少し過ぎた頃だった。

 定信は自転車を放置したところに戻ってから、どうしようか考えようと思った。人通りもまばらになり、辺りの商店の明かりが消され、どことなく淋しさが漂っていた。橋の水銀灯が薄ぼんやりと明かりを灯し、なおさら定信のやるせなさを助長させていた。彼の自転車はそのままの場所に置かれていた。それを見つけると足早に近づいた。

 その時、自転車から少し離れた場所で、青柳三平と古室由香里の二人が立ち話をしているのに気付かなかった。場所が水銀灯の明かりが僅かに届かない所だったこともあるし、気分が落ち込んでいたせいでもあった。


「おーい。義市」三平の声がした。

 定信はその声につられるように前を見た。そこには由香里と三平が橋の欄干から川を見ていた。定信は自転車を離れ、二人のところに近づいた。

「なぜ連絡してこなかったんだ」

三平の問い詰める声がした。由香里はただ笑顔のままそこにいた。

「すまん。連絡できなかったんだ」

 定信は細かい理由は言わずに、それだけを言った。

「まぁ、そんなこともあるわ」

 由香里の明るい声がした。そのことは終わりにしましょうということらしい。

 定信は頭を掻いた。由香里の声がその頭の上を通過した。

「ここを見て」

 由香里が指差した橋の欄干の上で小さな金の折鶴が、雨の日の街灯みたいにおぼろげに光っていた。由香里がそれを見ながら言った。

「美鈴からもらった、私の折り鶴よ」

 それを聞いた定信義市は上着の右ポケットをさぐった。

「あれ?」

「どうしたんだ」

 三平の含みを込めた言葉が聞こえてきた。

「三平から返して貰った桂木の折り鶴がないんだよ……間違いなくここに入れてきたのに」

 定信は東条紗枝を送っていく時に、あわてていたため不覚にも折り鶴を落してしまったのに気がついていなかった。

「あれ、義一の自転車だろ。近くに落ちてたんだ。よほど金の折鶴に嫌われたみたいだな」

 差し出された三平の手に金の折鶴があった。その後を由香里が続けた。

「自転車があるから、ここに戻って来るんじゃないかと思って待っていたのよ」

「ごめん。どうしても……」

「そのことはもういいのよ。こうして出会ったんだから。時として運命はひねくれるものなのよ。特に今日は捻くれ通し……」

 由香里が妖しい笑顔を定信から三平に向けた。その意味がわからない定信は三平から渡された折り鶴を由香里の折り鶴の横に置いた。二つの金の折り鶴は十年の時を経て橋の欄干の上に仲良く並んでいた。三平はそれを眺めていると、垣根の向こうに、おぼろげな桂木美鈴の姿が見えてくるようだった。

「じゃ、願い事を読む?」

 定信が言うと、ゆっくりと折り鶴に手を伸ばした。それを由香里が慌ててさえぎった。

「ちょっと待って。もう少しだけ」

「それはいいけど、正直、何が書いてあるのか知りたい気持ちもあるけど、知りたくない気持ちもあるんだよな」

 定信の本心はその願い事を知ったところで、それが何になんになるのだろう。そこに行き着いた。自分がその願い事を叶えてやれるのなら、少しは意味があるのだろうけど……もしも、悲しい言葉が綴られていいたらと思うと心が縮こまる。

「私は美鈴がどんな願い事を書いたのか知りたい。それからなら、折り鶴を川に流してすっぱりと忘れてしまうのもいいわ」

「三平とも話したんだけど、俺は白線流しみたいに川に流そうかと思ってるんだ」

 定信が三平を見て言った。

「でも、もう少しだけ考えるわ」

 由香里が折り鶴に視線を向けた。その先には十年前と同じように川が流れている。そこには人のはかなさが透明な色となって混ざり合い、溶けあっている悠久の時の流れがあった。

 由香里の声は時を遡って聞こえてきた。

「でも、これ見てると懐かしいわね。もう十年も過ぎたなんて信じられないわ」

 十年は決して短くは無いが、驚くほど長くもない。

「結局あれから、誰一人として桂木美鈴には会ってないし、今どうしているかも知らない」

 定信を悩ましていた不思議な疑問だった。

「あれはいったい何だったの? 定信君の向かいに住んでいた桂木美鈴という幼友達の戯れなのかしら」

「少し違うような気がするな」

 定信は橋の欄干に背中を向けて橋の中央にある水銀灯に目をやった。そこに何かが見えているのか、しばらくそうしていた。きっと定信だけには見えていたのかも知れない。視線を戻すと堰を切ったように話しだした。

「俺はほとんど毎日、桂木に会っていたから、なんとなく分かるんだ。きっと折り鶴の一つ一つに願い事を書いて居たのは、桂木の幼いささやかな抵抗だったと思う」

「そうかな」

 由香里は不満げだった。

「折り鶴が千羽に近づく事は、それは死に近づくことと同じだったんだ」

「だったら鶴なんか折らなければ良かったのに……」

 定信は縁側で鶴を折っている桂木美鈴の姿を思い浮かべた。

 桂木は見えない何かに自らの命を委ねることを選択しなければならないほど、追いつめられていたのだ。そんな思いが過ぎる。

 定信義市は今まで誰にも言わずに、頭の中に秘していた桂木美鈴の言葉が蘇っていた。少なからず三平も由香里も感づいていることかもしれなかったが。それを言葉にしていいのかを迷っていた。言うなら今日しかないという思いで、定信は淡々と話しだした。


「それは桂木が家を出る前日のことだった。俺が例によって学校の連絡帳を桂木に渡して帰ろうとした時、縁側のガラス戸が開いて桂木が顔を見せたんだ」


 三人には橋の欄干の上の折り鶴が見えなくなり、懐かしい風が目から耳から口から流れだしていた。


 過ぎた日々は遠くに霞んでいても、近くに在るような錯覚を覚えることがある。

 懐かしい声がする。

 振り返る人がいる。

 まだ肌寒い名ばかりの春。


「定信くん」

 定信が驚いて立ち止ると、ニッコリ笑った桂木美鈴が庭の一角を指さした。

「そこの忘れな草を取ってくれない」

「そこ? そこじゃわからん?」

 定信はおどけて言った。

「あなたの右足の向こうに、薄紫の花が咲いてるでしょう」

 定信が辺りをきょろきょろ見渡した。それが可笑しいのか、美鈴は今まで見せたことの無い明るい笑顔をつくった。定信は花を見つけると言った。

「どれくらい」

「そうね、一輪でいいわ」

 言われたように忘れな草を一輪、手に取って美鈴に渡した。

「忘れな草の花言葉は、私を忘れ無いで。あなたは直ぐに忘れちゃうから、忘れないように、これを持って帰って」

 今、定信が手渡した忘れな草の花を、そのまま返そうとする。

「忘れたりするもんか」定信が強がると「……じゃこれは私がもらっておくわ。私は忘れん坊だから」

 定信はそれを聞くと、嬉しそうに一輪の忘れな草を手にもった美鈴に小さく手を振り、ニヤッと笑って歩き出した。

 その背中に桂木美鈴の声が聞こえた気がした。冷たい空気を震わせて……確かに聞こえた。

「私の命はあと一年、二年は生きられないの。私はあなたを忘れない。だから……私を忘れないで」

 定信は、その時、あまり悲しすぎる言葉に振り向くことが出来なかった。聞こえない振りをして、そのまま美鈴の家を出て行った。

 その声は彼の頭のなかで、しばらく救急信号のように点滅していた。


 ぼんやりとした空気が流れていた。定信の口から吐き出された言葉をどう受け止めていいのか三平も由香里も戸惑っていた。

「でも、本当のことを何も知らないんだ。桂木美鈴がどんな病気で、どんな気持ちでいたかなど。ただ言えることは……」

 定信義市は言葉を飲み込んだ。その続きは由香里が続けた。

「桂木さんは欲張りだから絶対死んだりしないわ。私はピアノの先生にこの話しをしたことがあるの。そしたら先生は言ったわ。その子は随分欲張りね……だって、その折り鶴だけで十年間を拘束するんだものって」

 定信はそのことを聞いて、東条紗枝の言葉に秘められた意味が理解できた。そして、なぜ今日、東条紗枝に会わなければならなかったのか、その理由すらわかる気がするのであった。


「桂木美鈴は本当に存在してたのかな?」

 それまで黙っていた三平の声が闇に溶けた。

「おい、いたに決まってるだろう。いつも垣根の間から覗いていてだろう。ただ、何もわからないと言うことだ。誰も教えてくれないし何の連絡も無いんだ。おそらく、これからも会うことは無いだろう。だから生きていても、死んでいても、もう同じことじゃないか」

 定信義市の言葉に由香里は納得していない様子だった。

 三平は黙った。眼鏡の奥の目が微かに光る少しの間。

「あの時から、もう桂木はいなかったんだ。あれは全て幻想のようなもので、だからまっさらになって消えてしまたんだ」

 突然の三平の声が定信と由香里にぶつかった。その顔が、美鈴を追って走った小学生の時と同じように定信には思えた。

「私の中にはずっと存在してた……あの子と共有したのは僅かな時間だったけど、この折り鶴を見るとあの子を思い出したり、約束通りあの子の書いた願い事を読むために集まったりしているんだから」

 由香里の声が明るくはずむ。そして由香里が時間を確認するように携帯電話に目を落した。九時半を過ぎた頃だった。近くに桜の木があるわけでも無いのに桜の花びらが数枚風に吹かれていた。それに目を奪われているうちに由香里の声がピンクの花びらのように舞った。

「桂木さんなら来てるわよ」

 由香里の突然の言葉に定信と三平は驚いたように目を向いた。はたして、由香里が見た反対側の橋のむこうに一人の女性が立っていた。

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