72 光もなく、て
定信義市が帰ったあと、ドアを開けて中に入った古室宗三郎が見たのは、ピアノの椅子にかかっていた黄色いガウンだった。
宗三郎は東条紗枝が姿を現すまで玄関で辛抱強く待った。
それほどの時間ではなかった。
鞄から煙草をとり出し、ハードケースから一本引き抜いて、背広のポケットからダンヒルのライターをとり、口にくわえた煙草に火を付け点けるほどの時間。
大きく吸い込んだ煙が、玄関先で細い煙となって立ち上る。
「煙草は止めてって言ったでしょう」
東条紗枝の感情を抑えた声が聞こえた。
着替えを済ました彼女が、すでに用意されていたキャリーバッグを持って現れた。
「どこへ行くんだ?」
その行動が何を意味するのかを知っているような言葉の響きだった。
東条紗枝はニッコリほほ笑んだ。ファーストフード店で働いている店員のような、マニュアル通りの笑顔だった。
「今まで、ありがとう」
今、言わなければならない言葉を選びだす。本心の吐息であっても儀礼的であった。それは抑揚のない言葉として漂っていた。しかし宗三郎にはそうは聞こえていなかった。東条紗枝が何を考えているのか、これから何をしようとしているのか、そればかりを考えていたからだ。
古室宗三郎は目の前にいて、今まさに出て行こうとする、東条紗枝に困惑していた。その胸中を測りかねていた。
「由香里は誤解している」
古室宗三郎自身が何を言おうとしているのか、それすら覚束ない。
「何のことですか?」
「いや……なんでもない。これからどうするつもりだ」
ここを出て行きたいの……そう言いたかったのをこらえた。
「わからないわ」
「由香里に、私たちのことをどう説明すればいい?」
「この十年の間、何も説明していないのに、どうして今、説明する必要があるの。説明しなくてもいいことだったら、説明しなければいいのよ」
古室宗三郎が、かすかに頷いたように彼女は思った。それが東条紗枝の一歩になった。靴に片足を入れた。狭い空間で男と女が交差する。それはひと時であるはずなのに、永遠の長さのようでもあった。時はその長さを変化させる。科学でも物理学でもなく人の思いの軽重がゆえに。
東条紗枝は外に出ようとドアのノブに手を置こうとした。その腕を宗三郎に止められる。その手を振り切るように語気を強めて言った。
「やめて下さい!」
「なぜ行くんだ」
宗三郎の言葉は強い調子だが、それをはねのけようとする力が彼女の意思に宿っていた。
「本当に、この十年、お世話になりました。感謝しています」
さっき、定信が手をかけたドアのノブに東条紗枝の手がかかる。
「今になって、どうしてそんな事を言うのだ」
古室宗三郎はそれを止めようと、さらに力を込めて東条紗枝の腕をとった。東条紗枝は宗三郎に悲しみの籠った瞳を向けた。
「結局、あなたは自分のエゴのために私を十年間拘束したのよ。罪滅ぼしだといいながら私の十年間を独占したのよ。今だからはっきり言えるわ。許せない部分と、許せる部分があっても……」
そこまで言って言葉が途切れた。涙を堪えているように見えても、目には涙は無かった。定信の時には流れた涙だったのに今、タクラマカン砂漠のように枯れていた。東条紗枝の右手がゆっくり移動する。その目を隠すようにセピア色のサングラスがかけられた。彼女は強い決意込めた言葉を呟き出す。
「……母を裏切ったことは絶対許せない」
古室宗三郎は黙った。呟き出された言葉を受け止め、悄然とした心を隠したまま、捉えられない何かを探そうとしていた。
東条紗枝の言葉が続く限り、どのような言葉であったとしても、一言も聞き漏らさぬように黙っていた。沈黙の空気を振動させて、宗三郎の耳に捉えきれない言葉がなだれ込んでくる。
「でも、これでおしまい。あなたの人生がどんなに成功した人生でも、私を自由にさせない。生意気だけど、私は一人で生きてゆけるわ。あなたが捨てた私の母が、そう育ててくれたの」
外に出ようとする東条紗枝を、力で止めるしかない宗三郎だった。
「ここに残ってはくれないのか。私の家族に本当の事を言ってもいい……」
その言葉に東条紗枝は微かな微笑みをたたえた。セピア色に隠された目だけは決して笑ってはいなかった。宗三郎には見えていない事実だった。
「この十年の間、私が待っていたのは、その言葉だったのかも知れないわ。嘘でもいいから……でも無理しなくてもいいわ。私はあなたの家庭を壊そうとは思わないし……母もそんな事は願って無いだろうし」
「私は……お前の」
「もういいのよ。お願いだから、それ以上何も言わないで! 今さらどんな着飾った言葉を聞いても駄目。一度、鳴った音を消すことなんか誰もできないのだから」
「しかし……私はお前の母を本当に心から愛していたのだ。ただ」
東条紗枝はその言葉を撥ね退けるように語気を強めた。
「こらからは由香里と由香里の母を愛してあげて……私の母を愛した何倍も」
ドアは開いた。
もう風は吹き込んではこなかった。彼女の心には、それすら許さない重くて暗い世界が存在していたからだ。その心に黒い石を投げ付けるように、古室宗三郎の手がその背に迫ってくる。それを待っていたのか東条紗枝の手から、金の鶴のアクセサリーが絡みついたマンションの鍵が宗三郎の手に投げ渡された。しかしマンションの鍵だけが、その手を掠めてコンクリートの上に落ちた。
宗三郎の視線が下を向いたのを見て、東条紗枝は歩き出していた。宗三郎は落ちたマンションの鍵を踏みつけて後を追った。
東条紗枝にとって困惑と妥協の十年の思いを断ち切った瞬間だった。宗三郎は力が抜けたように追うのを止めた。
去る者は、去ってゆく。ただ、それだけだ。
宗三郎は、その決意を知って後を追う事は出来なかったのだ。ただ一言だけ呟いた。
「私は、紗枝の父親じゃなかったのか……」
東条紗枝の姿は廊下からエレベータルームの中に消えて行った。
マンションの八階のコンコース。
うすぼんやりとした明かりの中で、呆然と佇む宗三郎は手に握っていた金の鶴のアクセサリーを眺め、悔しそうに拳を握るとコンクリートに叩きつけた。それは勢いよく弾んで壁に当たり、八階の塀を飛び越えて見えなくなった。
キラリと光ることもなく、羽ばたくこともせず、暗闇の中に吸い込まれるように消えて行った。
東条紗枝も金色の鶴のアクセサリーも夜の静寂に消えて行った。
東条紗枝が消えて、入れ替わるように姿を現すのは……。
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