71 とほきねむり、の
ドアを震わせる音は、定信が部屋から出るのを拒む音だった。感情を苛立たせ、不安感を増長させ、身体の自由を奪っていた。
東条紗枝の指先は心の揺れを隠すかのように鍵盤を叩いた。それは定信のために弾いている英雄ポロネーズだった。高校一年生の時、音楽室の窓際で轟真悟と聞いたあの曲だ。流れるように音が連なり、激しい激流にのみ込まれ、岩に弾かれ音が砕けていく。突然、定信の耳に最後の一音が余韻を残して漂った。
ピアノの音が消え、ドアを叩く音も止んだ。静かに、時が止まったのだ。
あれほどうるさかった蝉の声が、九月になると突如、聞こえなくなったみたいに……。
耳をすますと、静かになった空間に東条紗枝の声が流れてきた。
「あれから十年が過ぎたのね」
……定信はマダムタッソーの蝋人形みたいに動きを止めたままだった。
「小学生のあなたに道を聞いた日、あの日が由香里にピアノを教える最初の日だった。あなたが由香里の家に苺を持ってきた日のことを覚えている?」
「はい、何となく」
立ちつくす定信は答えた。
「私は窓のカーテン越しに見ていたのよ。由香里がうれしそうにあなたと話しているのを……」
東条紗枝の指先は白い鍵盤の上に置かれたままで動きを止めていた。
「由香里はお金持ちのお嬢さんだけど……私は違う。生まれてすぐに父は蒸発し、母一人で私を育ててくれた。小学校に入る前に、母は言ったわ。あなたが一人になっても生きられるようにピアノを習いなさいって……あなたが一人になっても生きられるように……そう言った母は、その言葉のとおりに、私が中学二年の夏に、私の前からいなくなったわ」
その言葉の重さにどう反応していいのか分からない定信は、黙って聞いているしかなかった。言葉が身体を縛りつけた。
「私が馬鹿だったの。毎日、働いて疲れている母に、海に行きたいと、せがんだばかりに」
やがて、東条紗枝が語った短い話しは、彼女の人知れずのしかかる重石だった。時には眩暈を起こすほどの、時には欄干に崩れ落ちるほどの……。
東条紗枝がまだ十四歳の夏だった。
大きなカバンを持ってバスに乗り、電車を乗り継いで江の島の海水浴場に来た。波の穏やかな海だった。一つの浮袋に母と子供だった紗枝が掴まって波に浮かんでいた。その横を一人の男が泳いで行った。それを見た紗枝も泳いでみたくなった。覚えたての平泳ぎで浮袋から少し離れた。
「危ないから……遠くへ行っちゃ駄目よ」
叫ぶ母の声に東条紗枝が戻ろうとした時だった。小さな波が紗枝の身体を持ち上げた。バランスを崩した紗枝は引っ張られるように海に沈んだ。足がつくと思っていた紗枝だったが、そのまま身体が沈んでいくのに慌てて両手をばたつかせた。母はそれを見て、自分が掴まっている浮輪を紗枝のところに投げた。母の目には青い空を飛ぶ浮輪の向こうで、白い波の間に間に浮き沈みする紗枝の姿と、重く冷たい半透明な黒い塊が見えていた。
「母は自分が泳げないのを忘れて……私を助けるために、浮輪を投げてくれたの」
言葉は嗚咽に変わって、それを秘するようにピアノの音が鳴りだした。静かなゆっくりとした曲が定信の胸を締め付けた。鍵盤を叩く手が、鍵盤から発せられる音が、定信の心臓をわしづかみにする。もはや彼にはピアノの音は聞こえていなかった。東条紗枝の独白だけが凛として響いていた。
「海が好きだった母が、その海で死んだ……鎌倉のお墓は、私の母のお墓だった。私は二度と海を見たくなかったから、母の好きだった海の、せめて波の音だけが聞こえる場所に埋葬してもらったの」
東条紗枝は、まるで一人でミュージカルショーをしているみたいに弾いては語り、語っては弾いた。定信の感情も、また波のように寄せては引いて行った。
江の島で海を見ていた東条紗枝の悲しそうな表情を思い出し、目がしらにいく筋も電流が走った。
定信はその場を動けなかった。言葉は呪縛となって脚に絡まっていた。
東条紗枝が口を開くのを待った。その呪縛を解かんがためか、さらに深みにはまって奈落に沈むか。
「私は親戚に引き取られても、すぐにそこを飛び出した。あの頃は何も見えてなかった。自分しか……自分のことしか考えられなかった。それでも人の好意で私は高校へ行き、大学まで行かせてもらった。その時は、それを当たり前のように思っていた。私は本当に馬鹿だった。愚かな人間の見本見たいに、だから、せめて大学の学費くらいは何とかしようと……由香里にピアノを教えることにしたの。一人で生きられるように……母が残した言葉の意味が、その時、初めて気付いたわ」
東条紗枝の目から流れる涙が白い指に落ちた。それを定信は気付いてはいなかったが、東条紗枝の背中が泣いているように思えた。定信の身体のいたるところから涙がこぼれそうだった。
それでも指は動きを止めない。それは白い蜘蛛みたいに動き続けていた。
「小さな恋の大冒険って曲を覚えている。私は心のどこかでそんな冒険が出来る恵まれた由香里を妬んでいたのよ。由香里が憎かったのかも知れない」
定信義市は黙って聞いていた。聞くことがここに来た理由だとでも言いたげに。
「そして、由香里の父は私に優しい言葉をかけてくれたわ。有り余るお金の使い道に困ったのね。きっと」
中学生の由香里の誕生会での出来事が、なぜか頭に浮かび上がっていた。由香里の父が東条紗枝を車に乗せて走り去ったのを……それを寂しそうに見ていた由香里の母の姿を。そのことは定信を悩ませはしなかったが、何故か由香里の父に好意を持てない原因の一つだった。
東条紗枝は顔を上げた。そしてひとことだけ言って口を閉じた。
「あなたと見た海が、母が死んでから初めて見た海だった。あなたがいなかったら、決して見ることは出来なかった海だと思う。あなたがいてくれて良かった。海が見られてよかった。母は海を憎んではいなかったことを知っただけでも……。私と定信の前に海はあった。あの時と同じように」
定信はなぜか悔しくて、寂しくて、せつなかった。ここを出て行ったら、もう二度と東条紗枝とは会えなくなる、そんな気がしたからだ。
「今、出て行ってもいいんですか? まずくないですか?」
東条紗枝はもう答えない。その時、再びチャイムが鳴り出した。戸惑う定信はドアを開けて外に出て行くことが出来なかった。
「先生……」
東条紗枝が何かを言うのを待つ。ただ身の上話しを聞くためにだけに、ここへ来たのではないとすれば、何かもっと大切なものが聞きもらし気がしたからだ。それが何か……おぼろに分かっても、それを肯定する気にはなれなかった。そんな事は無いと否定すればするほど東条紗枝は霞んでいくからだ。
「この金色の鶴は、もうあなたには必要無いのね」
言葉を止めて、それを見つめた。その視線が定信に留まる。
「あなたの大切な日だったのに……ごめんね、定信」
その一言が定信の背中を押した。ドアの前まで進んで、ノブを握ってからもう一度、東条紗枝を振り返った。定信を見つめる東条紗枝の姿が霞んで見えた。その目が濡れているのではない。今、この部屋の全てがそうだった。 東条紗枝のセピア色のシューズも、窓の光を遮る青いカーテンも、赤いレザーソファーも、壁のファブリックパネルも、黒いピアノも、玄関脇に置いてあるダークブラウンのキャリーバッグも全てが泣いているように思えたのだ。
口を閉ざしたのだから、もう進むしかなかった。力を込めてノブを回し軽くドアを外に押した。
簡単なことだった。ただ微かな冷気に驚きさえしなければ……。
春は名ばかりで、冷たい夜風が定信の寂寥心そのままに吹き込んできた。そこには皺ひとつない背広を着た、一人の中年紳士が立っていた。
定信義一がドアから顔を見せたとき、一瞬、驚いたように顔を硬直させ、身体をのけぞらせた。
「君は……」
中年の男は眉間に皺をつくり、落ち着いた声で言った。
それは定信を知った顔であることを物語っていた。
そこに居たのは由香里の父、古室宗三郎だった。
定信は心穏やかではなかった。
なぜ? なぜ? なぜ?
あらゆる思考が錯綜していた。
そのまま軽く頭を下げると、何もかも振り払うように走り去っていった。
十年の時を過ぎ、東条紗枝の元を去っていく定信義市。
由香里の父の姿を見て何を思い、感じたのか、春の夜風はいつも冷たいものだ。
少々、飛ばし過ぎの気配あり。
読んでいただいて有難うございました。