70 光、をはなつ
三平の横には桂木麻奈美が歩いていた。
正直に話せば麻奈美は来ないだろうと、定信と古室由香里と会う理由を簡単に話した。しかし、それが裏目と出た。世の常とは言え、桂木麻奈美をよく知らない三平の不覚であった。
麻奈美は北海道から転校した当初、定信が麻奈美を桂木美鈴と錯覚したことも、金の折り鶴の話しも知っていた。
「私をここへ導いたのは、神様のイタズラじゃないと思う」
誇らしげに宣言する麻奈美の表情は、舞台の上で万雷の拍手を浴びて感極まった女優のようだった。それはスカーレットオハラのようであり、マリーアントワネットのようでもあった。
事実、自己陶酔の笑顔へ導いた一本の紐に絡みついた経緯と、この唐突な出会いを考えればそう思うしかない。断る理由が見つからない三平は仕方がないと観念した。
「運命的なものを感じない?」
麻奈美は三平が何を言おうとついて行くと決めているようだった。麻奈美が決めたことを止めることは出来ない。勿論そんな事を三平は知るわけがないが……約束の時間の五分前にロスポアールに着いた。駐車場には定信から聞いていた由香里のド派手な車は駐車していなかった。まだ来ていないか、着ていても車ではないことに安堵の思いがした。
二人は古室と名前を告げると意思が通じたと見えて、薄暗い店内を楚々とした女性に案内された。その席には由香里がすでに座っていた。
高級そうな調度品に圧倒され、慣れない雰囲気に三平の気分は落ち着かない。麻奈美はそのへんのところは何とも感じていないようだった。
「定信君は?」
由香里の声がした。
「一応、現地集合ってことだったんだ。どうしたんだろう。時間には結構ルーズなとこあるから……」そう言ってから三平は口を閉じた。
「あれ? まさか、青柳君の彼女?」
後ろに立っていた麻奈美を見て由香里は言った。三平は否定の意味を込めて手を左右に振った。
「初めまして、私は定信君と高校の同級だった桂木と言います」
桂木麻奈美は簡単で、かつ疑惑を招く自己紹介をした。
「えっ! 桂木さんって?」
由香里が驚いて何かを訴えるように三平を見た。
三平はそれに答える前に麻奈美を由香里の横に座らせてから、その前の席に座った。由香里は横に座った桂木麻奈美を美鈴とダブらせていた。
「うそ、美鈴じゃないよね」
「ごめんなさいね。私は桂木でも美鈴じゃなく麻奈美といいます。桂木美鈴さんとは簡単に言えば、赤の他人です」
こんな日に随分ややこしい人が現れたと由香里は内心笑いをこらえるのに必死だった。
桂木麻奈美は勝気な豹のような目が印象的で、その獰猛さすら半分くらいは隠し持っていそうな美人だと由香里は思った。一目見て好印象と悪印象を持った。これはその人物に興味が湧いた証拠だった。
「まだ時間があるし、定信君が来るまで何か飲みましょう」
由香里のひとことに異論はなかった。
「僕はレモンティー」
「コーヒーじゃないの」
男はコーヒーを飲むものだと由香里は思っているらしい。
「コーヒーは身体に合わないんだ」
「なんで」
「コーヒーを飲むと目が真っ赤になるんだよ」
「なに、それ」
「わからないんだ。体質の問題かな」
「じゃ私はミルクティーにするわ。桂木さんは?」
「私はイングリッシュブレックファストにするわ。ノンシュガー、レモンは三分の一で」
由香里と三平はお互い顔を見合わせた。麻奈美は初対面で自己を印象付けるのに長けていたのを思い出した。初めて話しをしたキャンプファイヤーの夜、定信と三平の前で見事に転んだみたいに……。
ウエイターが手にメモを持ってやってきた。それぞれの飲み物をオーダーして定信がやってくるのを待つことにした。
二人の女性を前にして、俳諧連歌芭蕉拳の一子相伝の青柳三平もさすがに居心地が悪い。微かな沈黙がぎこちない空気を膨張させる。それが由香里をいつもよりさらに雄弁にさせた。麻奈美も由香里が気にいったのか微妙な隙間をその声が埋めていた。
時間は十九時を回っていた。定信に電話をかけたが、着信音が鳴るだけで出ることはなかった。
三平はその場を逃れるべくトイレに逃亡した。それは僅かな時間に過ぎなかった。再び席に戻ると二人は和やかに話をしていた。この光景を見て三平は思った。
「義一、驚くだろうな……」
一人ごとは当然二人には聞こえてはいない。
その時、定信義市は高層マンション八階の東条紗枝の一室にいて、カーテンの隙間から窓越しに下を眺めていた。色とりどりの光が点灯し流星のように光の尾をひいて車が流れていく。きらびやかな光に彩られた世界がまるで精巧に作られたミニチュア玩具のように見えた。それを眺めている自分すら、ちっぽけな玩具の中で蠢く虫けらの刹那に過ぎないことを気付かずにはいられなかった。
部屋には天井から吊り下げられた照明を反射してピアノが鈍く黒い光を放っていた。定信はピアノを斜めから見るように、赤いレザーソファーに一人で腰を下ろした。前のテーブルには薄紫の花が一輪、花瓶にささり、空のガラスコップが二つ無造作に置いてあった。壁には赤い花をデフォルメした北欧風のファブリックパネルがかかっていた。赤い花の絵なのだろうが、それは気味悪く定信は思えた。
部屋に流れている静かな音楽の向こうから、微かなシャワーの水音が聞こえてくる。部屋のなかの音楽は東条紗枝がシャワーを浴びる前にステレオから流したものだった。
定信の携帯が三平からの振動を繰り返していた。俺はなぜここにきたのだろうか……。
定信は早く三平と古室のところに行かなくてはとの強い思いも、思考とは裏腹に電話にすら出ることも出来なかった。幾重にも鍵をかけた金庫の奥底に厳重に仕舞い込んだみたいに……東条紗枝との時間を断ち切る選択肢を見つけられなかった。
ソファの前のテーブルの上に薄紫の花に目を移し、携帯の時間を確認した。時刻は二十時を少し回っていた。その時、選択肢の一つがその手に握られた。定信の左ポケットにあった東条紗枝の金の鶴のアクセサリーだった。それをテーブルに置いて、彼女が出てきたら立ち去ろうと、心に誓ったみたいに立ち上がった。
それと同時に東条紗枝はほんのり湯気を立てながら、シャワールームから黄色いガウンを着て出てきた。
「どうしたの……出て行くの」東条紗枝の声は静かに響いた。
「いや、まだ」
「約束が気になるのかしら?」
「今なら、」
「そう、約束は守らないとね、メロスは死ぬこともいとわず、約束を果たそうとしたわね。行きなさい。セリヌンティウスのところへ」
東条紗枝は濡れた髪をバスタオルで拭いながら、その目はテーブルにある鶴のアクセサリーを目にした。それが、なぜそこにあるのかには気にも留めていない。
定信義市という一人の青年のために、言わなければいけないことがあるみたいに、金色に輝く鶴のアクセサリーを白い指が掬いあげた。それを懐かしむように見つめながら小さな声で言った。
「あなたには忘れられない人がいるはず。私には、忘れたい人がいるの」
東条紗枝の言う定信の忘れられない人とは誰のことなのか、東条紗枝の忘れたい人とは誰のことなのか、定信義市は皆目見当がつかなかった。なぜ、今ここで言うのだと不思議にさえ思った。今日、出会わなかったら知らずに終わった出来事なのに。それとも、知らないことが罪悪とでも言うのだろうか。
その時、東条紗枝の玄関のチャイムが鳴った。二度、三度。
東条紗枝は冷蔵庫から冷たい飲み物を取り出して二つのコップに注いだ。
炭酸の軽やかな音がした。
「飲まない?」
「いいんですか?」
疑問符が繰り返された。
「なにが?」
「ベルが鳴ってます。出なくてもいいんですか?」
「この状態で」
「なんなら僕が」
「いいのよ。別に」
「大事な用件かも」
「私に……」
「じゃ僕は……」
「ちょっと待って! 定信は何にも分かってないのね。今、この状況が何を意味しているのか」
東条紗枝は手にある鶴のアクセサリーを愛しむように眺めると、ゆっくりピアノの前に座った。
チャイムはまだ鳴っている。それも激しく叩きつけるような音だった。
彼女は何事もないかのように静かに指をうごかした。
定信は立ったままテーブルの飲み物を手に取った。そして一気に口に放り込むと、喉が詰まったのか二度ほど咳をしてから玄関に向かった。そしてベルの音から、玄関ドアを激しく叩く音に変わって立ち止った。
誰でもそこを動けないときがある。
驚嘆するほど美しいものがそこにある。そのために動けないときがある。
悲しいほど愚かな存在がそこにある。そのために動けないときがある。
読んでいただき有難うございました。