69 こがれつ、酔ひつ
「私よ、覚えている。桂木麻奈美」
二年近く会っていない。しかし桂木麻奈美は覚えていた。ただ目の前にいる女性がそうである確信はなかった。高校時代のイメージには程遠い変身を遂げていたからだ。ただ微笑む口元には面影があった。
「定信の、確か高校の……」
そう言う青柳三平の言葉尻をつかまえて麻奈美は言った。
「定信の高校の元恋人だったって言いたいんでしょう。過去形じゃないわよ。今でもそうよ」
定信が麻奈美と今でも交際していることを三平は知らなかった。おそらく、定信も知らない。
三平が北海道の大学へ進学したことで、会う機会が減ったこともあるが、あまりそんな話をしないからだ。
「今も……」
「私はそう思ってるんだけど、どうも定信はそう思っていないみたい。でも時々会ったりはしてるのよ。そして一度、青柳君に会いたいから会わせて頼んだんだけど、北海道へいってるから無理だって断られちゃった」
右手で持っていたハンドバッグを後ろに回して左手を添えてから、うつむき加減に三平の横に並んだ。お互い口を開かない僅かな沈黙は、その眼鏡を曇らせ、その手を湿らせた。
「元気そうね。北海道はどう? 札幌は素敵な街でしょう」
僅かな空白を麻奈美の声が埋めていく。三平はその声を心地よく聞いていた。
「まだ、よくわからない。大学とアパートの往復だけだから……」
「確か、青柳君は女嫌いだったね」
「別にそう言う訳でも」
「少しは変わってきたんだ……今は?」
「別に……意識はしていない」
「じゃ、時間ある?」
「いや、」
「少しだけ時間くれる?」
三平は約束の時間まで少しの余裕があった。ただ桂木麻奈美と一緒にいることには若干の抵抗があった。
「これから、定信と会う約束があるから」
「じゃ、私も……私も行っていいの」
「そうは言ってないけど……」
「そう言ってくれるんでしょう」
三平が途方に暮れている時、定信は夕食はいらないと母に告げていた。
長袖のジャケットに真新しいストレートパンツという出で立ちで自転車に跨って家を出たところだった。勿論ジャケットの右ポケットには金の折り鶴を入れるのを忘れてはいなかった。左のポケットには東条紗枝の鶴のアクセサリーが入っていた。
ロスポアールは自転車で十五分くらいのところにあった。西洋の城をイメージした真白い建物で、蔦が絡まる外壁はライトアップされ幻想的な雰囲気が漂っていた。見るからに高級そうなカフェ&レストランである。定信はすっかり暗くなった道を暫く走り、右に曲がって橋をわたろうとした時、ペダルを漕ぐ足を止めた。
橋の中ほどで、突き出た水銀灯の明かりが照らし出していたのは、青いスプリングコートに細手の黒いジーンズ、長い髪を持て余し気味にして橋を渡っていた一人の女性だった。スローモーションを見ているようにゆっくり歩いている女性が、武蔵が原高校の元音楽教師、東条紗枝だとすぐわかった。
定信はいくら離れていても東条紗枝を見つけることが出来た。運動場の隅を歩いていても、少し開け放たれた校舎の窓から彼女を見つけることが出来た。全校朝礼の時、人ごみにまぎれていても見つけられた。
定信の自転車は速度を落とし、東条紗枝の傍らを通り過ぎて行く。声をかけようか躊躇した。一瞬の戸惑いが、数秒の時を刻んだ。いつも輝いて見えた東条先生が今、孤独な影を引きずっている。その影のせいで定信は声をかけることができなかった。数秒がさらに刻まれた。距離にして数メートル……もう声をかけることは出来なかった。
定信は東条紗枝を追い越すと、そこから一刻も早く立ち去ろうと腰をあげペダルを踏む足に力を入れた。スピードがあがり自転車は左右に傾きながら橋を渡りきっていた。解放された気持ちから定信は橋を振り返えっていた。そこには定信の動きをぎこちなくさせていた人の姿は無く、水銀灯がぼんやり光を放っているだけの橋があった。
定信はどこでも東条紗枝を見つけることが出来た。
その目は青いスプリングコートを着た東条紗枝を見つけていた。彼女が橋の欄干にもたれるように崩れ落ちていくのを。
定信は慌てて自転車を反転させると、東条紗枝のところに走りよった。
「先生、どうしたんですか」
橋の欄干にもたれるように、うずくまっている東条紗枝を心配そうに覗き込んだ。
「私って、駄目ね。定信が側に来ると、何故か眩暈がおこるの」
過去にそんな事があったのを定信は思い出していた。それは偶然の出来事であり、また、今も偶然の出来事だった。計算されている偶然があるならば。
「大丈夫ですか? 立てますか?」
東条紗枝は顔を上げて辛そうな表情を見せた。定信が手を差し出した。彼女は定信の身体を借りてゆっくりと立ち上がった。
「有難う、大丈夫よ……世話のかかる、おばさんね」
自嘲気味に笑った。その笑顔を見た定信は内心ホッと胸を撫でていた。すぐにでも、この場を離れなければならなかったからだ。三平と由香里に会う時間はそこに迫っていた。
「定信も大きくなったわね。私よりずいぶん大きい……」
愛しむようにつぶやく。彼は男として大柄ではなかったが、東条紗枝よりは頭半分くらいは背丈があった。彼女の身体は僅かに脱力し定信にもたれかかった。
その身体の微妙な重さは彼の頭を麻痺させるに充分だった。定信は一人の美しい女性のために、そこを動けないでいた。
「あの時、私の言ったこと覚えてる」
東条紗枝は彼がこの道を通ることを予期していたみたいに、この言葉を言おうと決めていたみたいに……それは呪文のように聞こえた。
「あの時、私の言ったこと覚えてる……もう忘れたかしら」
「あの時?」
あの時、それが、わからないわけではなかった。
「忘れてもいいわよ。そんな昔のことは」
東条紗枝は定信から身体を離すと腕をとった。さっきまで気づかなかった微かなアルコールの臭いがした。
「先生、酔ってるんですか……」
「ごめんね、私には、もう時間がないのよ」
「マンションまで送りましょうか」
定信はロスポアールのことが気になったが、東条紗枝をこのままにしてここを立ち去るわけには行かなかった。思考は停止していた。
「有難う定信。私を送ってちょうだい。そして、最後の夜を祝ってほしいわ」
その言葉にどんな意味があるのか?
(最後の夜……)に。
定信にとって東条紗枝にとっての、最後の夜。
「でも、約束があるからマンションの近くまで……」
定信が小声で言った。
「約束があるから? でも、それでは駄目……」
東条紗枝の言葉に定信は何かを言おうとしたが、それは彼女の口によって遮られた。
「人は知らないうちに破りつつけているの。人の信頼も、友情も、愛も……そして約束も」
「でも、それは駄目だって先生は……」
呆然とする定信。これだけ言うのが精一杯だった。その心は春の風見鶏のように迷っていた。
東条紗枝の手は定信の腕から離れ、その冷たい手をとった。
「さよならをしたくないからよ」
東条紗枝は定信義市の手を離し、おぼつかない足取りで橋を渡って行こうとしていた。
定信義市は手をみた。まだ温もりが残る手……。
定信は自転車を橋の隅に置いて東条紗枝を追った。そしてジャケットが翻り、その右ポケットから戻ってきたばかりの金の折り鶴が舞い落ちた。
それは街灯の明かりにキラキラ光り、桂木美鈴の幼い心そのままに、紅い紐が心細げに揺れていた。
約束の日に何かが起こる。
青柳三平と桂木麻奈美。定信義一と東条紗枝。
後ゴールまで200メートル。それが長いのか短いのか、知るものなどいない。
終わらない小説がこの世にはあると言うことを、知らないのと同じように……。
読んでいただいて有難うございました。