68 あゆむとすれ、は
定信義一は携帯電話で時刻を確認した。古室由香里と会うのは十九時にロスポアールという高級レストランだった。少々値の張る店で普通に学生などは寄りつきもしない。
「今日、7時にロスポアールで会いたい、ってか」
青柳三平はため息交じりで言った。さらに大きなため息を定信がついた。
「どうして高級レストランなんだ。俺を億万長者とでも思っているのか」
「それはない! 古室にしたら、そこが普通なんだろう」
「有り金かき集めても、どこか不安な俺の気持ちがわからないのか」
定信が財布の入っている後ろポケットに手をやる。
「分かっているさ……分かっていて見栄を張るのが、金持ちという人種の特徴なんだ」
「古室は折り鶴のことで、俺たちと会うつもりなんだろう。奢ってくれないかな」
「武士は食わねど高楊枝って言うだろ……でも、古室は忘れてなかったんだな」
「この十年の間、結局、誰も忘れていなかったってことか」
定信は余程不思議なのか、軽く首を捻りながら言葉を続けた。
「小学生の時の話しなのに、なぜ、これほど懸命に約束を果たそうとしているのか。どうも、わからない」
桂木美鈴はあれから一度も姿を見せていない。
遠い日、ひと時を一緒に過ごしただけなのに……その子のために、大事な時間を費やして遊びの続きをしようとしているのか、問いかけては春の雪のように消えていく。
「約束しただろう。その折り鶴を手の上に乗せてさ」
三平が金の折鶴を指差した。
「遊び、だった」
定信はそこに桂木美鈴がいるみたいに言った。そして表情を一瞬曇らせた。三平はその表情の変化が何を意味しているのか測りかねていた。
信じていた友人の言葉。それが偽りだと知った少年の悲しみに満ちた面差しにも似ていた。
三平は定信から視線を外すと、それをテーブルに移した。そこには一人の少女が願いを込めた金の折り鶴があった。思い出せないことを思い出し、安堵のため息をついた刹那、再び忘れてしまった時のような目をして三平はそれを黙って見ていた。
定信の曇った表情は桂木美鈴の心の投影だと、テーブルの上の折り鶴が教えていた。
「遊びじゃなかったのかも……すくなくとも、桂木は遊びだと思っていなかった」
定信は十年の空白を埋める言葉を知らない案山子みたいに、その中を飛んできた金の折り鶴をただ呆然と眺めるだけだった。
三平は思った。
(桂木美鈴の本心は、なんだったんだろう?)
声にはならなかったが、定信はその声が聞こえたかのように言った。
「桂木の本心は、今ならわかる」
三平が何を言おうとしたのか、聞くまでもないのか定信は言葉をつづけた。
「桂木は自分が助からない命だと思い込んでいた。だから、一人で死んでいくことがたまらなかったんだ。折り鶴に願いを書いて、それを十年後に読ませようとしたのは彼女の絶望した気持ちがさせたと思う」
桂木美鈴にとって千羽鶴が千羽に近づくこと……それは限りなく死に近づくことだった。だから一枚一枚に願いを書いていたのは、それに対するささやかな抵抗だった。千羽にならなければいいんだと、あの子は幼いながら考えていたにちがいない。
定信の折り鶴と、古室の折り鶴。
二羽の折り鶴は桂木美鈴の元を飛び立っていった。そして十年後に舞い戻った時には……。
だから……あの時じゃ駄目だったのだ。
三平はうすぼんやりとした天井の照明灯を見て言った。
「死んでいると思うか?」
時計の振子が二度、三度揺れる程の間があった。
「それは分からない。死んで知るかも知れないし、元気で生きているかも知れない。今でも病気と闘っているかもしれない」
定信はコーヒーカップに口をつけた。琥珀色した液体はすっかり熱を失っていた。三平はティーカップの底に少しだけ残っていたレモンティーを手に持った。カップの中にはレモンの切れ端がこの世の終わりの月のように見えた。
「死んでなんか、いないさ」
言い終わると三平はレモンをスプーンで掬いあげると口の中に押し込んだ。広がる酸味に三平の顔が歪んだ。
「根拠は?」
「金の折り鶴が、定信の手にもどったからさ」
「まさか?」
三平の眼差しはあらゆる可能性を見つめていた。誰も知らないことを決めつけはしなかった。
「可能性の話しだよ」
二人は口を閉ざしてしまった。お互いの思いは、遥か遠い懐かしい景色の中へ飛んでいた。それは競い合うように無限の彼方に小さくなっていく。小さくなって見えなくなるとチリチリと光って消える。光は離散し地面に落ちた。そこは無限の可能性を秘めた空虚で捉えどころのない世界。残像だけが存在する曖昧な場所。それを思い出と例える人がいる。
その十年後が目の前にあった。
「三平はどうする?」
定信の声はやや湿り加減だ。
「僕は部外者だし、……遠慮するよ」
三平はそう言ったものの、どこか寂し気だった。
「部外者なわけないだろう。この十年間、金の折り鶴を持っていたのは三平なんだから」
「たまたま、訳あって、僕が保管していただけだ」
「何が書いてあるか、見たくないか?」
定信の言葉に一瞬ためらいの表情をうかべた。
「義一への願いごとを、僕が知ってもなぁ」
定信はその言葉を受けて沈黙したあと、閃いたとばかり声のトーンを変えた。
「じゃ、このまま見ないで川に流すなんてどう? 白線流しみたいに」
三平は眼鏡の奥の目を見開き、口からは風が流れた。
「川上とこの川下や月の友……それ、いいかも知れない。どこかで……」
『川上とこの川下や月の友』は深川の五本松で詠まれた芭蕉の句である。したりとばかり腕を組むと、静かに風が止んで言葉が途切れた。
月を折り鶴に変えて、川上で眺める定信たち。川を下って、それを眺める人がいるとしたら、いったい誰が眺めるのだろう。
三平は訳なく上を見た。変わらず、照明の光が鈍く光っていた。ただ、それだけのことだった。
この十年間、それぞれの道があった。光があり闇があった。
ただ、それだけのことでも、そうとは言いきれない、かけがいのない道だった。
定信は三平に十九時にロスポアール行くことを約束させて、十六時過ぎに、二人は別れた。
三平は帰宅すると服を着替えて、少し早めに家を出た。
早めに家を出たのはロスポアールに行く前に自分なりに頭の中で整理しておきたかったからだ。
十年前の出来事を思い出しながら、今日が本当の別れの日だと考えていた。初めて会ったあの時、玄関脇に立つ桂木美鈴の面影、別れの日の白い手。それも今日で終わる。そんな予感が珍しく三平を感傷的にしていた。その感傷は前から近づいてくる人に気付かないくらいだった。
住宅が立ち並ぶそれほど広くない道を、一人の女性がゆっくり歩いてくる。斜めから差しこむ太陽の光がその女性の姿を浮かび上がらせていた。その歩みが影とともに止まると、小さく首を傾げた。目の前には青柳三平がいた。
「青柳、くん?」
どこか懐かしい声に三平は顔を上げた。目の前には水色を基調にした花柄のワンピースの上に、藍色の絞りを重ねた若い女性が脱色したダークブラウンの髪を揺らし、手にはハンドバッグを持って立っていた。
一瞬、どこの誰だかわからなかった。
「青柳くんでしょう……」
三平もそう言われれば頷くしかない。正真正銘、青柳には違いがないからだ。
青柳三平に声をかけた若い女性は一体誰なのか? この続きは次回のお楽しみ……。
ちなみに、文中に出てくる芭蕉の『川上とこの川下や月の友』の月の友は江戸時代の俳人、山口素堂と言われています。かの有名な『目には青葉山ほととぎす初鰹』はその山口素堂の作です。今では語呂がいいので、目に青葉と言うことが多いみたいです。
読んでいただいて有難うございます。