65 ゆめ、と知りせば
発表会の会場に近い公園通り、まだ肌寒い夕刻の風が緑をなびかせて人の心を萎縮させる。
「どうしたんだ?」
男の声が東条紗枝の耳に響いていた。彼女は押し黙ったまま歩みを止めようとしない。
「何が、君を怒らせるんだ」
東条紗枝の後ろを小走りについてくる男は執拗に声をかける。
「いったい何があった?」
東条紗枝は男から逃げるように足早に歩いていく。男は彼女の前に回りこんでその肩を両手で掴んだ。
「君が私に好意を持っていないことは知っている。君が迷惑だとしても、私は君が好きなのだ」
東条紗枝は男の言葉を跳ねつけ、その手から逃げるように振り切って走った。
赤いドレスの端が男の手を掠めて離れた。さすがに男はもう追おうとはしなかった。
「私は待ってる。君が私の元に来るのを、いつまでも待っている。君は知らないだろう……私の部屋にあったカーテンを昨日捨てたことを、君のお気に入りのカーテンで飾ってほしいからだ。テーブルも椅子も新しいのを買った。君が座る椅子もある。まだ誰も座っていない。君だけが座る椅子だからだ……」
男は走り去る東条紗枝に向かって語りかけていた。その耳に届いていないのを知っていながら、己の想いの全てを吐き出せば、いつか振り向いてくれるとでも言いたげに、前を行く東条紗枝に呪文のようにつぶやき続けた。
東条紗枝は道路に向かって右手を上げた。その横にタクシーがすべるように止まった。ドアが開く音がして赤いドレスがタクシーの中に消える。そしてドアの閉まる音がしてタクシーは走り去っていった。
男の目には走り去ったタクシーの残像がクッキリと映っていた。その息苦しさから逃れるように胸のポケットからタバコを取り出し口にくわえた。ライターで火をつけるが気持ちの苛立ちからか火が点かない。男は走り去ったタクシーの方向に視線をやり、タバコを二つに折って道路に投げ捨てた。
東条紗枝に怒りを覚えたからではなかった。
悩みの淵に立つ女性の手すら捕まえることが出来ない自分に、不甲斐なさを感じたからだ。
男の横顔が曇っていた。
その横を定信と三平がつまらなそうに歩いてくる。
先に気がついたのは定信だった。二人の姿を見て男はあわてて後ろを向いた。
「あれ、」
定信が声を上げた。
「知ってる人か?」
三平はやや小柄な男に目をやった。男は煙草に火をつける仕草をしながら背中を見せて顔を伏せていた。
「曲渕先生」
定信は驚いたように声を上げた。
曲渕先生と呼ばれた男は振りかえって顔の筋肉を引き締めて言った。
「三年二組の定信か、こんなところで何してるんだ」
長い髪を切ってすっきりした武蔵が原高校の国語の教師、曲縁介であった。
「先生……アタマ」
長髪を短くした曲渕が、ずいぶん若返って見える。
「いや、心境の変化だ。日々、心境は変化するものだ。これを難しい言葉で変貌自在と言う」
短くなった頭に手を置いて、どういうわけか笑顔を振りまく。
「煙草に火がつかないんですか?」
「そう言うわけでも」
同時に二人は地面に目をおとす。
「でも、道路に煙草を捨てちゃ駄目ですよ」
曲渕介の足元に落ちている煙草を見て定信は言った。
「もっともだ。教師たるもの範とならねばならんと言うのに面目ない」
曲渕は足元の煙草を拾うとポケットから携帯灰皿をとりだして、そこに入れた。
「じゃ、急ぐので」
曲渕は二人が向かう反対の方向に歩き出そうとした。定信の声が歩みを止める。
「先生、神社の壁の文字を書いた者を教えてくれって言ってましたね」
足を止めざる得なかった。
「それがどうした?」
「本当は知ってるんです。教えてあげてもいいですよ」
急いで立ち去ろうとする曲渕を足止めしているのは、定信の悪戯心だった。演奏会に東条紗枝が来ていたのを定信は知っている。曲渕は東条紗枝を追ってここにいるに違いない。曲渕の邪魔をしようとは思わないが、桂木美鈴と出会えなかったがっかりした気持ちと東条紗枝に纏わりつく曲渕を少しからかってやろうと思った。
「また、今度教えてくれないか。今日は急ぐので」
「東条先生、元気にしてますか?」
定信はたたみ掛ける。
「なんで、俺にそんな事を聞く?」
「だって、東条先生のことはなんでも知っているって、言ってたじゃないですか」
「確かにそうだ。じゃ教えてやろう。東条先生は、まさに今、この場所からタクシーに乗った」
曲渕は東条紗枝がタクシーに乗った場所を指さす。さらに指は上がり、その先には信号待ちをしていた一台のタクシーがあった。車の中に赤い服を着た女性が乗っているのがみえる。
定信は曲渕の指さしたタクシーを見た。乗っているのが東条紗枝だと視覚的にはわからなかったが、定信の胸騒ぎが東条紗枝だと教えていた。
曲渕はタクシーを一瞥すると、それとは逆の方向に歩みはじめた。捉えられない人を追うのをやめようと心に誓ったみたいに、足取りは不確かだが、二人の間の距離は間違いなく遠ざかっていった。
前方の信号が青になり信号待ちをしていたタクシーは定信の視界から消えていた。
「結局会ったのは、小曲りかよ」
定信は不思議な眼差しを曲渕の後ろ姿をむけて、ぼやき口調で言った。
「高校の先生か?」
「武蔵が原高校の国語の教師で自称、書道の達人。曲渕介」
定信は少々オーバーに表現してみた。
しばらく二人は寒さに肩を丸めて歩いていた。
「今日は楽しみにしてたのに……最悪な日だ」
定信はやや後ろを歩く三平に言った。
「今日は十二月六日。グレゴリオ暦では年始から三百四十日目になり、年末までは二十五日ある。最悪な日と言う曖昧な表現はあたらない。実に明解な日だ」
「グレゴリラ……歴? そんなこと言ってねぇよ」
前方の交差点の信号が赤になった。足を止めたついでに声も止まった。寒さが身体を覆う。
定信はポケットに突っ込んでいた手を出すと息を吹きかけた。信号が青になって二人は道路を横断する
「結局ビックリする人って、古室のことじゃなかったのか」
今度は三平がぼそっと言った。
「確かに驚いたけど、違うだろう」
「じゃ、誰だったんだ」
三平の問いかけに、しばらく考えていた定信が白い息を吐いた。
「俺は、もしかしたら転校して行った桂木美鈴じゃないかと楽しみにしてたんだ。すっかり忘れてるなんて言ってたけど、時々、どこかでどうしてるだろうとか考えたりしてた。でも、そんな事あるわけないよ。古室はそんな昔のことなんか覚えてないって」
定信もぼそっと言った。三平は眼鏡を曇らせただけで何も言わなかった。そのことが肯定している証拠だと定信は勝手に思った。
「ここは冷静に推理してみよう。今日、会場で会ったのは、義一の音楽教師と桂木麻奈美に似ていた子の二人だろう」
三平が眼鏡を指で押し上げた。
「そう、古室は桂木麻奈美を知らないから無関係だと思う」
「じゃ、残るのは、音楽教師の女」
「そう言うことになるか……でも、古室が俺に対して、その教師が驚きに値する存在だと認識していないはずだ」
そう言いつつも東条紗枝のマンションの近くで由香里と出会ったことがあったのを思い出した。その時、坂の上で東条紗枝が定信を見送っているのを見られていた。それを誤解しているのならそう言うこともあるのかも知れないと考えていた。
「……と言うことは、誰も居なくなる」
「そして誰もいなくなった」
「しかし、犯人は、そこにいた」
「はたして、他の、ビックリする誰かが、会場にいた?」
確かにそこに居た。ぼんやりと光を纏った一人の少女がいた。
「そう、確かにいた。でっぷりと太ったおばさんが」
「なんだよ、それ」
「あとで古室に聞いとくよ」
二人が信号を渡り終わった。
しばらく歩いて定信は三平と別れた。
三平と別れた定信の足は何かを引きずっているように急に重くなった。脳裏をよぎる一人の少女。その少女に赤いドレスが重なっていく。
夢でみた桂木美鈴と東条紗枝の面影があざなえる縄のごとく絡み付いて離れなかった。
空車のタクシーが定信の横を走っていく。それを意味なく見つめる。
東条先生と会いたい……定信はそれがわかっていて、まだ知らない振りをしようとしていた。
桂木美鈴が振り返ることなく消えてしまったのに、何をとまどっているのだろう。
足取りは重く、反問を繰り返すのみであった。
なんと、この話しは一年以上続けてしましました。
更新が遅いのが最大の理由です。それも、そろそろ最終コーナーが近づいてきました。
競馬実況風に言えば「胸突き八丁ペースが上がってまいります!」
ペースが上がるかはわかりません。おそらく馬群に沈んでいくと思います。
読んでいただいて有難うございます。