61 誰、が踏みそめし
傍らを流れる川面に、二枚の木の葉が競い合うように流れていた。
離れたり近づいたり。やや大きいのが定信で小さいのが桂木麻奈美。
定信はブランコの鉄柱に手を置いて、そんな想像をしながら川の木の葉を眺めていた。
電燈の明かりが届かなくなり、やがて二枚の木の葉は夜の闇の中に見えなくなった。定信の横には小さな児童公園のブランコに乗った桂木麻奈美がいた。麻奈美に引っ張られてこの児童公園に来た。
「今日は、私にとって、忘れられない日になりそう」
「そうだな」
「男たちに拉致されかかったとき、私は、なぜか青柳君助けて……声に出していたのよ。そしたら本当に青柳君が来てくれた。まるでスパイダーマンが極悪人から美人の恋人を助けるみたいに」
麻奈美が笑った。
「不思議なことがあるんだな。もしかしたら君には超能力があるのかも。三平だけじゃなく、僕も吸い寄せられるみたいに神社に来たんだから。君こそ蜘蛛女」
「止めてよ。私が蜘蛛な訳ないでしょう。でも、定信が来たのには驚いたわ。それに菅野君も……悪いことしちゃたわ」
「竹本は小学校の時は菅野の子分だった」
「でも、菅野君はその竹本君にやられた」
「竹本にやられたんじゃない。飛刀のせいさ。それに、菅野は竹本を力で倒そうと考えてなかったと思う。力で叩きのめすことが勝ったことにならないことを教えたかったんだろう」
麻奈美は一息ついて、心の揺れを隠すみたいにブランコを揺らした。
「私が蜘蛛女だったら、きっと蜘蛛の巣で素敵な男を絡め取るわ。きっと好きな人を決して離したりしないわ……でも、今の私はどう? 私の周りに誰がいるの。誰もいないわ。超能力なんてないし、捉えたら離さない蜘蛛の巣もないのよ。気にはしてないけどやりきれないわ。それに、あなたは仮の恋人を卒業して私の本当の恋人になったことに気付かないし。でも、私には定信しかいないって今日、思った。これは私が最初に望んだことだけど」
定信の表情がほころんだように見えた。麻奈美が見せた笑顔のせいだった。
「仮免卒業か……いつ卒業したんだろう」
呟いた言葉に麻奈美の言葉がかぶさった。
「私の手、冷たかったでしょう」
「いや、そんなことはなかった。凄く温かかった。僕の頭がカーッとなるくらい……」
定信は頭を掻いた。にっこり笑う麻奈美の横顔がかすんだ。近くにいてもどこか遠くに思う。不思議な娘だ。
一時間ほど話して二人は家路についた。この時間が定信にとって無意味だった麻奈美を意味ある存在に変えようとしていた。それは桂木美鈴の忘却を意味するものなのかはわからない。少なくとも定信の横にある椅子には、誰も座ってはいない。東条紗枝もいなくなった。その椅子の前に桂木麻奈美が立っているのは確かなのだ。でも座ってはいない。誰かを待っているかのようにひっそりと、その椅子はある。
菅野は走る。と言ったものの全身の痛みからくる身体の異変で走るのを止めていた。途中のコンビニで買ったのかビニール袋を手に提げていた。出かける時、妹の桃子にチョコケーキ買ってきてやるよ。と約束していたからだ。
軽く左に身体を傾げながら腕をだらりと下げて歩いていた。胸が苦しいのか、立ち止っては息を吐き、そしてゆっくり息を吸い込む動作を繰り返す。
前からハロゲンランプを光らせて車が走ってくる。菅野は光を遮るように手を目の前に置いて、片側一車線の道路の左に身体を寄せた。車はスピードを落とすことなく走り去っていった。菅野は車をやり過ごすと又歩き出した。痛みに意識が奪われていた。小さな痛みは大きな痛みで消えるのが痛みのメカニズム。
通り過ぎて行った車が、少し行き過ぎたところで静かに停止していた。その車の運転席から一人の男が飛び出してきて素早く菅野に近づいてくる。その手がキラリと光っていた。光は男の顔を映し出した。さっき、神社で菅野に飛刀を投げた背の高い男だった。痛みに支配されていた菅野には後ろから近づいてくる男の足音など聞きとることなど出来なかった。そしてさらなる痛みが菅野の神経を襲う。
菅野の首筋に冷たい金属が突きつけられた。それは容赦なく喉を突き差しそうに思えた。
「お前のおかげでナイフが投げられないからなぁ。突き差すことぐらいは出来る」
振り向く菅野に男は躊躇いもなく身体を寄せた。菅野の口からうめき声がもれた。
「今、俺の車とすれ違わなかったら、こんなことにはならなかった。運が悪いんだ。俺もお前も……」
男は身体を離すと慌てて車に戻り、何事もなかったように走り去った。
排気ガスが鮮血で染まったアスファルトの上を漂っていた。菅野の目にはそれすら見えなかった。
「冗談じゃねぇよ……なぁ、桃子」
菅野は一言を残して、その場に倒れた。
コンビニの袋の中からイチゴのショートケーキが道路に投げ出された。
数日後、定信義市が通う武蔵が原高校に警察官がやってきた。神社の本殿の壁の文字と、神社から少し離れたところで高校生が刺されて重体になった事件も絡み事情を聴くためだった。
全校朝礼の時、当高の生徒ではないが同じ高校生が乱暴を受け、ナイフで刺されて重体になった事実と、神社の壁の落書きについて校長から話しがあった。定信はたまたまその日、歯痛のため学校に遅れて行ったからその話しを聞くことはなかった。不幸中の幸いであった。
定信は菅野がその夜ナイフで刺されたことは知らされなかった。知ったのは数日たってからだった。菅野を刺した男はすぐに逮捕された。ただ未成年のために詳しいことは隠されたままであった。そのことから、神社での諍い事はある程度、公にされたが壁の文字の件は定信と三平が悪戯をした覚えはないと言うことで一件落着した。
ある日の放課後、定信が曲渕介に呼び出され詰問された。
定信が陸上部の練習に行こうとしているところを足止めされた。切ればいいのに、長い髪の毛がさらに長くなっていた。後ろで束ねるしぐさも素早くなった。
「神社の壁を削って落書きをした不埒な奴がおるそうだ。わしはこの目で実際に見てきた。本殿の西と南の漆喰の白壁に大きな文字が落書きされていた。一つは芭蕉の句だ。そしてもう一つは、本で調べたたら一休早雲の言葉だ。まさかとは思ったがピーンきた。この一休は定信の字だと……違うか」
定信は肯定も否定もしなかった。落書きをした覚えが無いからである。定信の字だと言われればそうかも知れないし、違うと言えば違う。決して意図したものではないから落書きと言えるかどうか知らないが。あれは自然の成せる技だと言いたかった。しかし黙っていた。
「まぁ、それはいい。誰にも黙秘する権利はある。日本国憲法で「何人も自己に不利益な供述を強要されない」とある。それに別に犯人捜しをしているわけじゃない。それは警察にまかせておけばいいし、例えみつけ出したからと言って警察に突き出すような野暮な男でもないつもりだ……俺が知りたいのは芭蕉の句を書いた奴のことだ。あの字は定信の字じゃない。定信には書けない字だ。白壁を削りあれほどの文字を書ける人間に俺は会いたい。もしか知っているなら教えてくれ」
「教えてくれって言われても……」
二人の傍らを轟真悟が通りかかった。
「さだのぶぅ、練習にいくぜぇ」
「わかった。じゃ練習があるので」
「おい、定信、知っているんだろ。教えろ」
「あれが落書きと言うなら、僕は知りません」
轟真悟は曲渕に向かって言った。
「神社の出来ごとは、神のみぞ知るって言うじゃねぇか。あれは神のお告げだろう。桑原、桑原」
轟真悟と定信は悔しがる曲渕を置いて走っていった。
それ以後、曲渕が頻繁にその神社を訪れたのは言うまでもない。そして感嘆してカメラのシャッターをきり、ため息ついている姿があった。
その壁の文字はなぜか消されることなくそのままにしてあるらしい。芭蕉と一休の魂のなせる技だと巷ではかしましいが、これこそ神のみぞ知るものだ。
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまうこそこひしけれ(藤村)
やはり五七調は心地よい
読んでいただいて有難うございます。