60 恋、のあけぼの
その時、背の低い男が麻奈美に向かって行った。
その腕が彼女の髪の毛にかかった時、定信の手がその腕を払いのけていた。麻奈美は僕が守ると言った言葉通りに。ならばと、今度は定信に掴みかかってきた。掴まれてたまるかと、必死の形相で身体を移動させて麻奈美を背中に追いやった。
男が目をぎらつかせて吠えた。
定信の目が燃え火の粉がかかる。さすがに、かかる火の粉は払うのが習い。腕に力がみなぎり突進してくる男を待った。三平以外に初めて一休拳を試す時がきたのだ。身体の小刻みな震えは恐怖感の裏返しだった。ただ迷いは微塵もなかった。投げられたら落ちるしかない小石の境地だ。
定信は右と左の拳を交差させる間もなく、男の拳が目の前に巨大な岩となって迫ってくる。
定信の口が大きく開いて最初の言葉が飛び出た。
一休拳は起承転結が基本技。
「起」
雉の泣き声にも似た声。男の動きが僅かに鈍る。
「花を見よ 色香も共に 散り果てて 心無くても 春は来にけり」
定信は片足を軸にして宙に踊る。男は飛びこみざま彼の腕を掴むと力任せに振り回した。驚くほどの強力だ。定信はよろけながらも壁に背中を当てて、突進してくる男の攻撃をかわす。麻奈美はじっと見ていられないのかその場にしゃがみこんだ。
定信の声は空気を振動させる。
「承……有漏路より無漏路に帰る一休み、雨ふらば降れ、風ふかば吹け」
体をかわされた男の拳は無防備な白漆喰の壁を打ちつけていた。壁は変化なく拳にダメージがあったのか、男の顔の中央が陥没したみたいに複雑に歪んだ。
「転……生まれては、死ぬるなりけり、おしなべて、釈迦も達磨も猫も杓子も」
定信の手が忙しなく動き続けた。芭蕉拳よりその動きは速い。三十一文字の短歌は十七文字の俳句より当然のこと字数が多い。さらに画数の多い漢字がちりばめられた一休拳はその動きも速くなる。男とて腕に覚えあり。隙をついて定信の足を封じようと小刻みな蹴りをまじえる。しかし一休拳の『転』の頃から男の動きは生彩を欠いた。一撃すら受けていないにも関わらず身体の中から脱力感が襲う。一休拳が外傷を負わす拳法ではなく内傷を負わす拳法であることを男は当然知らない。影が男を覆う。闇そのものが姿を現したかのような影。内息が乱れ呼吸は暗闇を暴走した。
男が見たものは苦しげにもがく己の姿だった。背中に感じる壁の冷たさだった。
それが錯覚か、現実か、それすらわからない。ただ声を聞いたと思った。いや、それすら聞いていなかったのかも知れない。
「結……門松は 冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
呆然と男の動きが停止し、震えるように壁を背中にして崩れ落ちていた。
父親に叱られ、悔しくて、反攻して……それでも父の大きさにうなだれた子供みたいに。
定信は闘争心を失った男を見て信じられないとばかり麻奈美を見た。
「やった! 定信って、思ってたより、強いじゃない。夢じゃないよね」
麻奈美は定信の周りを飛び回り無邪気に喜んでいた。それもつかの間、その表情が一変した。へたり込んでいる男の背中の白壁を見たからだ。白壁にはクッキリと文字が浮かび上がっていた。
『門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし』
一休拳の結の句が鮮やかに刻みこまれていたのだ。
定信はそれを見た時、何故そんな事が起こったのかわからなかった。それ以上に、神社の本殿の白壁に削られたように刻まれた文字が、あとから問題になるんじゃないか、もしかしたら神様の罰が当たるのではないかと、いらぬ不安が頭を過ぎっていった。
定信が三平を見ると白い粉の舞う中で、竹本は息を乱し虚ろな目を遊ばせているのが見えた。
それを見た菅野が立ち上がり壁を背にした竹本に近づいて行った。
菅野の手が雪のように降る白い粉を手で掴んで、不思議そうに首をかしげる。そして、ひとこと言った。
「お前にはやることがあるはずだ」
菅野を見た竹本は無理に無表情を装っていた。まるで雪の中で凍え死んだ人みたいに。
「居なくなったお袋を探すことだ。そして父が死んだことを告げろ」
竹本は苦しげに声を出した。
「今日は、随分しゃべるんだな」
「お前が、あの時と違うように俺も変わった。そうじゃないのか」
竹本は完膚無きまで菅野を打ち負かした。俺は間違いなく菅野芳治に勝ったんだ。そう思っていた。この手、この足に必殺の手ごたえが残っている。
それでも拭えない、救いようのない敗北感。
自分が三平に不覚をとったことではない。雲龍拳が芭蕉拳に負けたことではない。それは男の勝負だった。勝ち負けは時の運、俳諧連歌芭蕉拳が雲龍拳を破るためだけに工夫された功夫であろうと無かろうと。
敗北感は菅野に対するものだった。
「帰ってくるものか、どうして、帰ってくるんだ。今頃、どの面下げて帰ってくるんだ」
「夏でも雪が降るんだよ。お前のお袋は一人しかいない。違うのか……」
菅野は手の白い粉を地面に落した。それは雪のように舞いながら落ちて行った。竹本は顔を上げない。四人が神社階段から姿を消すのを壁に張り付いたままなすすべなく見送っていた。涙が落ちたのか白い地面が濡れていた。
三平は定信と麻奈美とともに神社の階段を下りて行った。四人の姿は夜の静寂の中にみえなくなった。それを待っていたかのように新月が雲に隠れた。
「菅野君、そんな恰好で帰って大丈夫なの。医者に行った方がいいんじゃない」
麻奈美が心配そうに言う。
「かすり傷さ」
四人の会話は各駅停車の電車みたいに止まってばかりだった。
「三平君は大丈夫。顔に血がついてるけど」
「平気だよ。この血は……」
「俺のかえり血だ」
菅野は腕を縛っていたタオルを緩めた。血は止まっていた。
「定信も頑張ったね」
「いい場面で少しは目立たないと、影がうすくなる」
四人の影が道に伸びる。
「じゃ、俺はこれから、ひとっぱしりするから」
菅野が言う。
「大丈夫か、無理するな」
定信と三平は同時に声を出した。
「無理が通れば道理は引っ込むらしい」
そう言うと三人をおいて走っていった。
麻奈美はその後ろ姿を追いながら三平に言った。
「青柳君、今日は有難う。お礼のしようもないわ」
「男として当たり前のことをしただけだ」
「でも、格好よかったわ。青柳君。定信もね」
「義一、桂木さんを送ってやれ。俺はここで別れる」
三平が気をきかせたのか角道を曲がっていった。
定信は自転車を押しながら黙っている麻奈美と息のつまる時間を持て余していた。
「今日は、こわかったろう」
「うん、すこし。でも竹本君って悪ぶってるけど、結構シャイなところがあった。車に乗せられた時は怖かったけど、何もされなかったし、楽しく話もできたのよ。もう少しで友達になれたかも」
「君に才能があるとすれば誰とでも仲良く出来ることだ」
定信は笑った。麻奈美も笑っていたが心からの笑顔ではなかった。
新月の夜は面妖なことが起こる。
定信の背中に痺れがはしり脳天で破裂した。気がついたらその手は麻奈美の手の中にあった。微かに冷たい手だった。
月が姿を消しても、傍らを車が猛スピードで走りぬけても、「よぅ、ねぇちゃん」酔っ払いが声をかけてきても、その手は離れなかった。
この暑さでありながら、節電、節電の大合唱にエアコンのスイッチをオンにすることに罪の意識を感じている、今日この頃です。
それにしても……。
この暑いのに、読んでいただき有難うございます。