5 色に、うつろふ
「ちょっと待って……」
そう言って美鈴はその折鶴を赤いヒモでくくった。折り鶴は美鈴の心を現すように指先の赤いヒモがかすかに揺れていた。
「これ、定信くんにあげるわ」
美鈴は定信義市の手の上に金色の折り鶴を乗せた。
定信義市の手の上の金の折鶴を見た。この時はたんに思いつきでくれた折り鶴だと思っていた。
この折り鶴が定信義市の、これからの人生に大きく関わってくるなどとは想像も出来ないことだった。
「由香里にはこれ」
はじめから古室由香里のために折っていたのか、小さなバックの中から、これも細い赤い糸でくくられた金色の折鶴を取って由香里に手渡した。
「有難う、美鈴」由香里の顔が輝いた。
「その折り鶴の裏に私の願い事を書いてあるの」
「願い事?」
由香里がオウム返しで言った。
「そうよ。でも今は読まないで。約束よ」
「うん約束する…」
二人は同時に言った。
「それを見たら私を思い出して欲しいわ。いつまでも大事にしてね」
「明日にも消えてしまいそうな事を言うな!」
由香里は顔一杯に怒りを表して美鈴を睨んだ。その表情のなかに由香里の友を思う気持ちが溢れていた。
定信義市は由香里のその顔を見ても、もう笑ってはいなかった。ただ軽く元気を出せよとは言えなかった。
美鈴の病気が何なのか知らないけれど、そのやるせない気持ちを考えると、言葉一つで心が癒されないことぐらい幼い定信義市にもわかっていた。
少しの間をおいて定信義市は折鶴を見ていた目を桂木美鈴に向けた。
「うん大事にするけど……でも、何が書いてあるのかが気になる……」
「……そうね」
美鈴が何を考えているか定信義市は気がついていた。
そんな日が来るわけがない。
病気が良くなって元気になる日が必ず来ると思っていても……たった一人で、幼い美鈴が死と向き合っていると思うと定信義市の心が乱れた。
「由香里の誕生日はいつ?」桂木美鈴が聞いた。
「2月20日よ」
「定信くんは?」
「俺か‥‥俺は、4月1日」
定信義市は頭をかきながら言うと、由香里はクスリと笑った。
「笑うな!」定信義市の声と拳骨が飛んだ。
ひょいと由香里はよける。
「……私は1月25日」
美鈴がそう言った後、少しの間があいた。
その間がなにを意味しているのか定信義市には理解できた。その理解が胸を苦しくさせた。
「じゃ、10年過ぎたら‥‥」
桂木美鈴は遠くを見つめていた。
垣根の向こう。
その向こうの霞む青空。
その向こうに見える、震える白い手……。
「10年過ぎたらって‥‥?」
定信義市の頭の中が真っ白になって、由香里は頭の中で足し算をしていた。
「10年後‥‥私たち二十歳になってる」
「今日は3月31日」と由香里の声。
「明日は俺の誕生日でエイプリフール」
定信義市がニヤーと笑って言った。
「少し早いけど、お祝い上げようか……」
そう言いながら由香里の足が定信義市の足を力一杯踏んづけた。定信義市の顔がへの字にゆがんだ。
桂木美鈴はそんな二人を羨ましそうに眺めていた。
「十年後の今日、三月三十一日に読んで……」
表情がかげり、その声は悲しげな響きがこもっていた。
「10年も待つのか、そんな先のことないのと同じ……」
定信義市がゆがんだ顔で由香里を睨んだ時、美鈴が白い細いうでを前に出した。
由香里も手を前に出して美鈴の顔を見てにっこり笑った。
定信義市は仕方なく「なんだよ‥‥」とつぶやきながら、ぶっきらぼうに手を前に突き出した。
「その手のひらの上に鶴を乗せて‥‥」
美鈴の言うとおり二人は手のひらの上に鶴をのせた。
美鈴の縁側から見える電柱の上に、ポツン、ポツン、ポツンと黒いカラスが三羽止まっている。
「あそこに‥‥カラスが見えるでしょう。ちょうど三羽止まってる」
美鈴が白い指を指した
「それはカラスの勝手でしょう」
由香里が歌うように笑った。
「クイズよ‥‥猟師が鉄砲で撃ったら美鈴と言う名前のカラスに当たって下に落ちたの‥‥由香里カラスはどうなった?」
「由香里カラスも一緒に落ちた‥‥友達だから」
ニッコリ笑う二人に、定信義市はつまらなそうな顔つきになった。
「俺は落ちない」
「どうして落ちないのよ‥‥友達でしょう」
由香里が顔を定信義市にくっつけるように突き出して頬を軽くつねった。
定信義市は少し顔を歪めたが気を取り直して言った。
「絶対に落ちない‥‥でも‥‥」
「でも‥‥どうしたの?」
由香里が言葉をかぶせるように定信義市に肩で当たった。
「本当は‥‥」
「‥‥きっと、我慢強いんでしょう」美鈴が軽く言った。
定信義市はニィーと笑った。
本当は疾風のように飛んでいって落ちる美鈴カラスをこの体で救ってやる。そんなせりふが言える定信義市ではなかった。
「カラスが証人よ‥‥」
小さな三つの手の上に二羽の金の折鶴が並んでいた。
10歳の春。
その時、三つの小さなその手のひらから、二羽の金の折鶴がキラキラと眩いほどに煌いて空高く上昇していったのに三人は気がつかなかった。
カラスはそれに驚いたのか電柱からばたばた飛び去って行った。
小さな二羽の折り鶴は、いつしか一羽の大きな金色の鶴となって天空の神があきれて目をまわすほどに、大空いっぱい‥‥黄金色に染めて羽ばたいた。
「田中副所長代理補佐……西の空をいっぱいに染めて金の折鶴が飛んできますが、いかがいたしましょう?」
「今日の折鶴祈願のスペシャル色は金色だったか?」
「確か……そうだと記憶しております……スペシャル色の折り鶴に書かれた願い事は必ず叶えなければなりません。そういう決まりになっております。今日は金色の折り鶴の日です」
「やれやれ、折鶴祈願叶所に天下って、のんびり出来ると思っていたのに、このタイミングで飛んでくるとは……まあ、あと五分でタイムアウト、後の人にまかせよう」
「知らなかったことにしても、私は一向に構いませんが、よろしいのですか? そんなことをしても……」
「なんだ、その奥歯に物が挟まったような物言いは……」
「本日の引継ぎ者は風邪のため休暇をとっております。それに理由は分かりませんが、今日は総本部統括所長自らお出ましになります……」
「それを早く言え! 時間がない。早く金色の折鶴を回収して願い事がなんだか調べてくれ!」
「私の部下がすでに回収に向かっています。もう戻って来る時間です」
「さすがに手回しがいい。使える奴だ」
「戻って来ました」
「早速、読んでくれたまえ」
「はい! 小学四年生の願い事になります。では、一枚目を読ませていただきます。由香里のピアノが上手になりますように……云々」
「ははは、子供の書きそうなことだ。次は?」
「はい! では、二枚目を読ませていただきます。私の病気が良くなったら、きっと……」
「きっと……?」
「……」
「きっと、なんだ?」
「それが、」
「早く言え。時間がないぞ」
「それが……」
天国からこんな会話が聞こえてきそうな黄金色の空が広がっていた。
かすかなな記憶が後になって蘇って来ることがあります。
小学校の先生のなにげない一言が、十数年後に私の読書の方向を決めてくれました。
天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず
もっとも、意味も分からず言葉の響きとして覚えていたものです。
それがどういう意味か分かったのが十数年後のことでした。
お読みくださり、ありがとうございました。