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金色の空  作者: 古流
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55 清しき、星も

 桂木麻奈美、高校二年生の夏の夜のことだった。時間にして午後の8時を少し過ぎたころだ。クラブから帰宅中、人通りが絶えた道のりで起きた。

 点滅を繰り返し今にも消えてしまいそうな頼りなげな街灯の下、帰宅を急ぐ桂木麻奈美の行く手を阻んだのは怪しげな影だった。

 漆黒の闇の使者。明らかに桂木麻奈美を狙った影であろうか……否、若い女性を無差別に狙ったものだ。ただこの場合は麻奈美になったということだ。

 影はでこぼこと三つ。麻奈美と同年代に見える男達だった。三人とも派手な色つかいのアロハシャツをはためかせていた。

 一人は背が低いが厳つい風体に横幅だけは充分にある男。あと二人は長身でがっしりとした体格の男であった。暇を持て余しての仕業だろう。

 威嚇する意味で河童の形相に狼の目をもった背の低い男が長身の二人を差し置いて前に出てきた。その面構えを見ておびえる麻奈美は辺りに人がいないか見渡した。

 麻奈美の左手には川が流れ、その川沿いには落下防止の柵が作られていた。道路の右手は大手が経営する巨大な駐車場を挟んで分譲マンションが建ち並んでいた。余程大きな声を出さないと聞こえない。そんな思いが麻奈美を気持ちを暗くさせた。あいにく人の姿は全く見えない。外出禁止令が出たゴーストタウンみたいだ。ゾンビが出てきても驚かない。


「彼女、この辺の子かい」幼馴染のように親しげに話しかけてくる。

 麻奈美は知らぬ顔で行き過ぎようとするが、同じ歩幅で男たちはついてくる。

「別に怪しい者じゃないからさ。少しだけ遊ぼうよ」

 どこがどう怪しくないと言うのだろうか、どう見ても怪しげである。怪しげな男の見本帳を作れば表紙を飾ってもらいたいくらいだ。武蔵が原高等学校の校長先生が太鼓判を押してくれたとしても、信じることが出来ないほど怪しげなのだ。本人がそう言えば、なおのこと……。

 その後ろでは長身の一人がにやけた表情でズボンのポケットに手を突っ込み、いかり型の背を丸める。

 麻奈美の足が少し早足になり、それはかけ足に近くなっていた。咄嗟にこの三人はやばい、と感じたからだ。牛は牛づれ馬は馬づれとはよく言ったもので、三人とも顔の中心に氷点を置いた冷酷さを宿していた。まさに悪面の悪づれである。麻奈美が今まで経験したことが無い感覚だった。とにかく逃げよう。それしかなかった。

 男たちが口々に嬌声を上げて追いかけてきた時、心臓に凍るような恐怖感が生じた。再び取り囲まれた麻奈美を見る悪面連からは、すでに笑顔が消えていた。飴とムチのつもりか……もう顔は笑っていなかった。逃げる麻奈美に真になったのだ。大柄な男が麻奈美の身体をかかえ耳元に小声で囁いた。

「死にたくなかったら、黙ってついてきな」

 麻奈美は首筋に冷たいものが当てられているのを感じていた。男の手か他のものかは分からない。麻奈美が前を見ると一台の赤い車がハザードランプを点滅させて停まっていた。首筋の冷たさと前方に停まる車に窮鼠猫を噛む例え通り、いきなり麻奈美は右手に持っていたカバンを男に振り上げた。隙が出来た瞬間、赤い車と反対方向へダッシュした。その前方から中年の男が一人で歩いてくるのが見えた。麻奈美は勢いよく、その中年の男に近づき背中に回った。

「助けて下さい」

 声を聞いた男は焦点の定まらない目を向けた。口から身体全体から発せられるアルコールの匂いが鼻をついた。中年の男が背中の麻奈美を振り返ろうとした時、足元が定まらず、よろよろとその場に崩れるように倒れて手をついていた。麻奈美はあきらめ再び走りだした。今度は男たちの反応は素早かった。いくらテニスで鍛えていても、男が本気になれば手に負えるものではない。狙った獲物は決して逃がさない鷹であった。ハゲタカだ。麻奈美は再び男に囲まれていた。今度は三人ではなく二人だった。

 背の低い男と背の高い男が睨みを利かせていた。もう一人は赤い車に乗ってハザードランプを点滅させたまま、猛スピードで近づいてくる。もみ合う三人の横で赤い車はブレーキの軋み音をたてながら急停車した。男たちは後部ドアを開けると麻奈美を力づくで押し込もうとする。麻奈美は車に乗せられたら大変とばかり大声で叫んだ。

「やめて!」

「やめない……」

 背の低い男が粘ついた声を不気味に吐き出した。場馴れしているのか根っからの悪なのか、肝の据わった連中だった。例え、人が通っても視線を泳がせるだけで、そ知らぬ顔で通り過ぎるのを知っていた。せいぜい警察に連絡するのが関の山である。一人の女を乱暴にナンパするくらい電動ポットが湯を沸かすくらい簡単なことなのであった。麻奈美も必死の抵抗を試みる。

「こんなことをしたらただではすまないわよ。私の友達に拳法の達人がいるんだから」

「おい、聞いたか……拳法だって、よ。はぁはぁ」

 背の低い男が横にいる背の高い男を見上げた。見上げられた男はにやけた顔に侮蔑の表情を滲ませて、力任せに麻奈美を車に押し込もうとする。

 必死に抵抗する麻奈美の口から意外な叫び声が出た。

「青柳君、助けて」

 小学生の時、親と行った遊園地のお化け屋敷で、幽霊に追いかけまわされた時、泣きながら叫んで以来の声であった。その火事場の絶唱は背後にある川面の水を微かに波打たせた。魚が跳び跳ねたように白波がたった。その水しぶきは空中で弾け合い、さらに小さな粒になった。それは、ひととき霧雨のように三人に降り注いだ。

 麻奈美にとって生きるか死ぬかの瀬戸際である。侮れないのは人知れず内に秘めた人間の底力であった。


 何故、ここで青柳三平の名前が出たのには理由がある。麻奈美がキャンプで三平に出会った以来、定信と会うたび三平の事ばかり聞きくので、怒り心頭に発し、三平のあること無いことを吹聴していたからである。俳諧連歌芭蕉拳はいかいれんかばしょうけんの達人。定信の口を借りれば青柳三平は高天原たかまがはらさえ震撼させる武術の達人であった。

 風を呼び、雨を降らし、舞い躍る木の葉に足をかけ空中を高く自在に飛ぶことが出来た。三平が芭蕉拳の絶技を繰り出せば、その身体に誰ひとりとして指一本触れることすら出来ない。

 その言葉は三平を麻奈美のなかで偶像化させるに充分だった。もともと麻奈美にとって印象深い存在だったのだから、青柳三平の名前が咄嗟に出ても不思議ではないのだ。溺れる者は藁をも掴むである。

 定信の名前も浮かんだが、悪面に叩きのめされる映像が目に浮かんだから止めた。

 定信の一休拳は麻奈美が見ても、いかにも頼りなげだからだ。武術を知らない麻奈美がそう思うのは仕方がない。

 弱く見えるものは、すべからく弱い。当然の思考である。弱く見えるものほど本当は強いということが理解できない。弱く見せることが出来ることにおいて、すでに勝っていると言うこと、強く見せる者ほどその本質において弱いものだと言うこと、古今東西それは全てにおいて。……これがわからない。


 その麻奈美の意外な叫び声に背の高い男が反応して動きが止まった。たまには叫んでみるものである。

「青柳?」

 その名前を一人ごとのように呟いた。男の形相が変わり麻奈美を押すこむ手の力が逆に引く力に変わった。それに気付かない小さい男は必死で車に押し込もうとするが、引っ張られた麻奈美は、その反動を利用して下から斜め上にテニスラケットのスイングよろしくで鞄を放り投げた。一瞬、怯んだ二人の下に潜り込むようにして必死に逃げようと試みる。背の高い男の股間をすり抜け後ろに回った。その時、男の足が回転したかと思う間もなく麻奈美の顔面めがけて情け無用の蹴りが勢いよく迫ってきた。その瞬間、骨が砕けるような音がして、内臓が悲鳴をあげたみたいにくぐもった声が吐き出された。



 その日、その時、時間で言えば午後8時を過ぎたころ、青柳三平は通学電車から降りて帰宅すべく足早に歩いていた。普通に帰れば通る可能性のほとんど無い道だった。ただ前方の信号が渡る寸前に赤信号になったのと、夜空に新月が輝いていたからだ。新月の日は気持ちが張り詰める感じがして好きであった。さらに星がいつもより数倍も輝いて見えているからだった。微かに西の空に天の川銀河の光の帯が走っているように感じた。もう少しだけ時間を共有したい思いで、真っ直ぐ信号を渡って行くところを右に曲がり遠回りして帰ろうと、さやけき風を口もとから吐き出した。

「荒海や佐渡さどに横たふ天河あまのがわ

 三平の両手は言葉通り、天駈ける龍の如く夜空に向かって文字を書きつけた。一字一字が空気を震撼させ、漂う揺らめきが光の帯に向かって流れていった。それはまるでケンタウロスであるケイロンが弓を放ち、その矢が白い光の(またたき)となって天の川の中に吸い込まれて行ったみたいに。

 三平はバネからはじかれたように足早に歩き出した。お馴染みの芭蕉軽功である。それとも不可思議な人のえにしなのか、三平にとっての桂木麻奈美。好むと好まざるとに関わらず、お互いを引き寄せ合う見えない糸が存在しているかのようだ。

 麻奈美が定信の名前を腹立ち紛れに口走ったコンビニの駐車場で、あわや後頭部にコーヒーの空き缶の直撃を受けそうになった時、それは縁。

 定信のいらぬ計らいからキャンプファイヤで再会した夜のこと、それはやはり、縁。


 青柳三平は麻奈美をそれほど意識しないまま一年間を過ごした。少なくとも定信にはそう見えた。以来、三平は麻奈美とは一度も会ってはいない。そんな三平が何かを託されたみたいに人気のない道に向いていった。

 まさか麻奈美の声が聞こえたわけではないだろう。駐車場で車がエンジンを吹かす音だけが、夜の静寂しじまに癇癪玉のように破裂しているだけだった。だけど。三平には聞こえたのだ。麻奈美が叫ぶ、青柳君、助けての声が……。

 川面で躍った水しぶきが空中を霧散し三平の体に降りかかる。その水滴の中に命をかけた言葉がとどまり、それが青柳三平のところで弾けた。

 驚いたように身体を硬直させた三平の頭をめがけて黒い物体が飛んでくる。


麻奈美に迫る危機、新月に目を細める三平に見えない糸が絡まる。


 余談

 文中の、荒海や佐渡に横たふ天河は、勿論、芭蕉の一句です。


 この句が発表されたのは七夕に近い7月4日の新潟の出雲崎らしいです。おまけにその日は雨が降っており、天の川どころか星のひとかけらも見ることが出来なかったそうです。

 一筆付け足すと、夏の日本海は荒海ではなく、ひねもす のたりのたりかなの、のどかな世界とか。そのうえ、天文学的に夏の佐渡では天の川は見ることの出来ない風景だとか、少なくとも佐渡の風景を読んだ句ではないことは確からしいです。


 いらぬお世話の天文学。


 この句はプラネタリウムに映し出す芭蕉の心象風景。

 まさに天文学。

 これぞ天文学てんぶんがく


 次回は珍しくアクションシーン満載。三平の身体を借りて芭蕉の心象風景がさく裂します。


 読んでいただいて有難うございます。

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