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金色の空  作者: 古流
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54 誰か、知るべき

 轟真悟とどろきしんごは大きく素早く頭を回転させた。汗が耳の後ろを流れ、はじかれて定信の顔に飛んできた。そんなことはお構いなしに大口を開ける。

「そういえばぁ、今年の全学書道コンクールで定信の品のない字が張り出されていたが、俺の字のほうが余程、上品でつやがあって達筆じゃぁ。小曲こまがりの米粒野郎。書道を知らんのにも程がある」

 定信の前に再び登場する小曲こと曲渕介まがりぶちかい。顔を思い出すと胸が悪くなった。

「知らなかったな……」

 話しが違う方向に跳んだことで定信は内心ほっとしていた。

 全学書道コンクールの一年生の最優秀作品として、定信の作品が校舎の入り口に曲淵の大層なほめ言葉とともに堂々と貼り出されていたのだ。

 

 肩を並べて走っていた二人だったが、急にダッシュして走り出した定信と、その後を追う轟。

 二人の姿はハリウッド映画さながらの逃亡劇を繰り広げ、夕暮れせまる校舎の影に脱兎の如く消えていった。その後は木々の緑が色を失い、突風にその身を任せているだけだった。


 日が暮れて冷たい風が運動場の砂をさらっていく。人気の無くなった校舎から練習が終わった陸上部の連中がぞろぞろと出てくる。

 定信も仲間と一緒に校舎を横切った時だった。

 何も知らなければ、何も知らないで行き過ぎていく物事がある。知ってしまうと、それに引き寄せられるひねくれた物事がある。

 嫌な予感がした。嫌な予感というのは得てして的中してしまうものである。曰くマーフィーの法則と呼ばれている現象である。

 校舎を出ようとした時、小さな影が長い髪を揺らせて早足で近づいてくる。小さな影は大きな声で呼ばわった。

「さだのぶ!」

 あろうことか国語教師、曲渕介に呼び止められたのだ。帰宅寸前、軽く会釈くらいはしてもいい。腹が空いた状態の疲れた体を呼び止められるなど定信が望むはずがない。ましてや相手が曲渕介ならなおさらだ。本心は正直に顔に出る。

 そんな定信の横を轟を筆頭にして陸上部の連中は意味不明の嘲笑を残して、さっさと帰って行った。

 見送る定信の肩から力が抜けていく。

「そんなに嫌そうな顔をするな。今日はめてやるんだ。俺は心から感嘆している。お前があれほどの字を書く男だったとは。人は見てくれだけじゃないとは、よく言ったものだ。書道は何年やってるんだ」

 曲渕が親しげに問いかけてくる。

 定信は書道などした記憶がないので、どう答えたらいいのかわからない。曲渕が選出した作品も貼りだされ褒められる程の字だとは思えなかった。

 ただ、中学生の時、学年で書道展に行っってナマズが踊っているような字と遭遇したり、牛が昼寝をしているような字を見て眠くなったりで、尋常でない世界であることは理解しているつもりだった。

 見える者には見えても、見えない者には、当たり前のように見えない。理屈で理解できないなら、悟ったようにうなずいていることだ。この場合、曲渕介の講釈だけは避けたかった。しかし最早、手遅れであった。曲渕介のスイッチはすでに押されてしまった後だったのだ。

「俺が気に入ったのは豪快さだ。半紙を突きぬける力強さだ。お前には半紙などいらんかもしれん。そこに岩があれば岩肌を砕いて文字を刻むだろう。書道と言えば書道、格闘技といえば格闘技だ。書道家の俺が言うのだから間違いない」

 よく口が回ると定信は呆れた。ここは素直になるのが賢明とばかり従順に答えた。

「字をほめられたのは初めてです」

 書道など何が良くて何がいけないのか、判別不明の門外漢だ。しかし格闘技という言葉を聞いて閃くものがあった。もしかしたら一休拳いっきゅうけんが知らないうちに書道への道を付けてくれたのではと想像してみた。一休拳は身体全体を使って空間に文字を描き出す拳法であるから、書道をしなくても毎日、文字を書いていると言えなくもなかった。それならば青柳三平の俳諧連歌芭蕉拳はもっと凄いことになるのではないか、これは一度聞いてみなければいけないと思った。

「お前が定信でなければ、今すぐにでも俺の弟子にしたいくらいだ。しかし残念ながらお前は俺のライバル、恋敵こいがたきだ。俺は男だが恋敵を弟子にするほど人間が出来ていない。こう見えても身体同様、気持ちの小さな男だ」

 どう見ても大らかな男には見えない。大きく見せようとすれば、小さくなっていく曲渕であった。

 定信は内心笑ってしまう。

「ライバル、恋敵って……何のことですか」

「ははは、しらばっくれるな、今日だって音楽室で居残りか……ずいぶん長い時間だったな」

「はぁ、音楽が苦手なもので……でも、なぜ、そんな事を知っているんですか?」

「俺は武蔵が原高校の教師だ。校舎のどこで何が行われているか、そんな事は手に取るようにわかる。今、誰が、どこで何をしているかなど容易いことだ。それにお前が知らない東条先生の秘密も、俺は知っている。東条先生が昼に何を食べたかも、俺は知っているんだ。すべからず、おのれを知り敵を知れば百戦危うからず、だ」

「はぁ、」

 少々うんざりしていた。曲渕介と会話を続けることがである。この教師の前にいて、その立ち居振る舞いを見なければいけないことがである。

「色恋など考える暇があれば脇目をふらず勉学にいそしめ、クラブ活動に明け暮れろ。それが青年の健全なる姿だ。事実、俺はこの年になるまで教育と書道に全生命を賭けてきた。惚れた腫れたは微塵も頭になかった。そんなことは頭が薄くなってからでいいんだ。おまけに年上の女教師の尻を追うなど一億万年早い!」

 曲渕介はロングヘアー。後ろで束ねていても頭には白いものが混じり、その全体のボリューム感は秋に葉を落とす落葉樹の淋しさが感じられた。印象は貧乏学者か、食えない作家。曲渕介の言葉はおそらく事実に近いと思った。

 小柄で芸術家肌の風貌に苦虫を噛んだ微笑が定信の胸を悪くさせる。相変わらず、無造作に束ねた髪の毛を束ね直し定信の顔を睨んでいた。定信とて一言多くなければ、身なりばかり気にする今時の男より少しは好感がもてるのにと微かな思いが現れすぐに消えた。敵対心を剥きだされると若気の至りか感情が表に出る。それにしても一億万年とは随分吹っかけられたものだ。

 定信は苦笑いを噛みつぶして、ゆっくり曲渕のそばを離れて行った。曲渕が東条先生を好きならそれでいい。東条先生が曲渕に好意を抱いているのなら、それでいいのだろう。そうは思っていても、曲渕の顔を見ると無性に腹が立って仕方がなかった。

「待て、定信。一つだけ教えてやる」

「はぁ」定信の気持ちの現れが気のない返事になった。両足はそのまま帰り支度である。

「東条先生は……今月いっぱいで、学校を辞めることになった」

 定信は正直どきりとした。想定外の言葉に足は止まろうとさえしていた。なぜ今、曲渕がこんなことを言うのか知らないが、ここで足を止める訳には行かなかった。急に重くなった足を無理やり前に押し出した。

 瞼には音楽室の東条先生の姿が浮かんだ。手のひらに温もりが残っている気さえする。先生は辞めるなど何も言っていなかった。勿論、そんな事聞いたところでどうなるのだろう……。

 定信が自分に問いかける。

 なぜ辞めるのだろう。なぜ、黙ってたんだろう。そしてどこへ行くのだろう。


 どこか人を見下ろしたような曲渕の微笑が顔の下半分を占めている。出鱈目を言っているようには思えない。

「お前の知らないことを俺は知っている。東条先生の事はお前より知っているんだ。嘘じゃないだろう……ただ、結婚準備とかじゃないから心配するな」

 人の心を読み取ることが出来ないのか、喋らなければいけないことは喋ってしまう性格なのか、平然と白髪交じりの髪の毛を束ね直しながら言い放つ。

(別に結婚準備とかじゃないから心配するな)最後の言葉が定信の記憶の末端の遥か果てに刻み込まれた。


 そして曲渕の言葉通りその年の暮には東条紗枝は武蔵が原高校を辞めていった。定信義市が東条紗枝のマンションに古室由香里を伴って行くこともなく、再びピアノを聴くこともなかった。

 そして桂木麻奈美とも変化のない日々を過ごし、少しずつ平凡な生活になりつつあった。時に、轟真悟の大声がなければ眠気すら覚えるほど、教室の机が程良い枕に変身するほどの生活だった。


 年が開けて、二年生に進級した夏の夜の事だった。定信義市が眠気を模様している間に桂木麻奈美に大変なことが起ころうとしていた。


東条先生が学校を辞める。曲渕介の言葉は定信義市には予想外だった。


桂木美鈴が去り、今度、また東条紗枝が去ってゆく。


会うは別れのはじめとは、歌謡曲ではないけれど、口ずさみたくもなりにけり。(蝙蝠傘)


骨かくす、皮には誰も、迷いけん 美人というも、皮のわざなり。(蜷川新右衛門)


一休拳見参!読んでくれてありがとございました。

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