53 願ひ、はあれど
ランニングシャツに着替えて部室から出てきた定信の背中に、轟真悟は声をかけた。
「おい、さっき、まだ教室に残っていただろう?」
「さっきって、音楽室のことか」
定信は軽く肩を回すと、腕を二度三度ブラブラ振りながら轟真悟に向き直った。
「俺が音楽室を覗いたときぃ、東条先生と定信はあの教室にいたはずだぁ、もちろん二人だけで……」
轟は流れる汗を拭くこともせず、足を屈伸させた。真新しいランニングシューズの青いエナメルラインがキラリと光る。その青い光に満足げにほくそ笑むと意味深な目を向けた。同じように足首をストレッチする定信は表情を変えなかった。この場合その方がいいと思ったからだ。
「そう言えば、いたかもしれない。轟の言い方を借りれば、東条先生と二人きりで……その実は、先生のピアノを聞いながら寝てた……とか」
轟はずっこける真似をした。そのまま定信の背中を両手で押しながらぶつぶつ呟いた。
「まぁ、お前に譲ったオンナだ。俺には関係がねぇ。音楽室で何があって、男と女の何が起こったとしてもだぁ。はぁっ、少々うらやましいがぁ……」
「……」
足くびをゆっくり回しながら苦笑いを漏らした目を向けた。それを待っていたのか定信の耳元に口を寄せて轟は言った。
「音楽室で椅子と机が倒れる大きな音が聞こえたから何事かと見に行けばぁ、東条先生が気だるそうにピアノを弾いているじゃねぇか。まぁ、定信が居残ってるのはわかってたけどさぁ、あの音は何だったんだ……この世の終焉を思わす、あの大きな音は何だったんだぁ、まさか、おまえ……」
「ふーん、記憶がないが足で椅子を蹴飛ばしたのかもな……そう言えば、前にもそんなことがあった。俺が練習で音楽室の近くを走っている時、茶箪笥をひっくり返すような大きな音をしたことがあった。そんなに気にはしなかったが、もしかしたら……」
定信は以前、その音を聞いた後、息をきらせて校庭に出てきた東条紗枝と声を交わしていた。いつも冷静な東条先生が珍しく慌てている……そのことに違和感を覚えたものだ。
「もしかしたら、」
「東条先生のストレスが爆発したとか……」
「教師はぁストレスがたまる職業だぁ。うまくコントロールしないと爆発するからなぁ」
「それとも、」
「それともぉ、」
「幽霊かも」
学校ではそんな話はよく聞く。話しをはぐらかすつもりで言った。
「まさかぁ、東条先生が幽霊だなんてぇ……うれめしやぁ」
「東条先生が幽霊じゃなくて、音楽室に幽霊が出るって話だ。そんな話聞いたことがあるだろう……誰もいない音楽室でピアノの音が聞こえるとか、そんなことありそうだ」
「そんな話はぁ、聞いたことねぇ。誰もいねぇ、陸上部の部室で悪臭を放しながらぁ、ランニングシューズが飛びまわってる話は有名だがぁ……」
真新しいランニングシューズの青いエナメルラインがキラリと光ったように思った。
定信はその青い輝きを感じながら両膝をそろえて回すストレッチを終えると、ゆっくりジョギングを開始した。轟もあとに続いた。その足元の青い光の残像が眩しい。アイテムを変えるだけで気持ちに変化が起こる。いつもに増して轟真悟の走りが超軽快だ。
「新しいランニングシューズを買わないとだめかな」
定信がため息をついた、その耳元にささやきが聞こえた。
「定信のシューズの事を言ってるんじゃねぇ。さっきの話しだがぁ、音楽室でも妙な噂がある。特に最近、音楽室に得体の知れないものが徘徊してるらしい」
「妙なうわさ……」
横を走る轟真悟に肩を並べた。
「知らねえのかよぉ。曲渕が音楽室に日参してるってぇ話し。猛烈に東条先生にアタックしているらしいぜぇ。定信、気をつけろよぉ」
一歩だけ進む間が開き、青い光が交錯する。定信はクラっとして一瞬目を閉じた。
「そんなこと、関係ない」
「そうだなぁ、定信には桂木麻奈美がいたんだぁ。忘れておった」
「忘れてくれて、ありがたい」
定信はうんざりしたように首を振り、その目はテニスコートに向いた。無意識に桂木麻奈美を探していた。そこには桂木麻奈美の姿はなかった。二人の仲に進展はなくても、それなりに気になる存在ではあった。その意識が逆に反発する素材の一つになっていることに気が付いていても、それはもともと麻奈美に責任があると定信は思っていた。親しげに近づく男なら誰とでも仲良くしようとする振る舞いに、時としてイライラすることがあった。それが定信を含めて男を遠ざける理由の一つじゃないかと感じていた。そのことを麻奈美が気付いているのか知らない。気付いていても、それが出来ない思考回路の持ち主だと思った。男から見る女性としては、少なくとも轟真悟と定信義市には好ましくなかった。
(恋ってなんだ……好きなら俺だけを見ろ。俺だけに親しげな振る舞いをしろ)
そんな独占する力が恋の作用だろう。そうでなければ疲れてしまう。しかし現実はそうではない。そうでないから恋をすれば恋人同士は時に悩み惑うのだ。疑心暗鬼に苛まれるというわけだ。
自問する気持は自己中の解答を導き出す。
相変わらず進展しない恋人同士だった。それでも以前とは定信の気持ちに変化が起こっていた。麻奈美との距離の取り方がわかってきたからだ。定信がそう思っても麻奈美がどう考えているかは、わかるはずがない。変化を感じるとすれば、時々、会話の中に青柳三平が出てくることだった。ある意味、定信は刺身のつまであった。
その時は適当にあること無いことを聞かせてやる。当然、俳諧連歌芭蕉拳のことも、大いに誇張して吹聴したものだ。女を友としない三平が麻奈美と再会することなど二度とないと思ったからだ。
幼かった定信義市と桂木美鈴を覗くと、この話しに出てくる男女は例外なく暗中模索の闇の中です。
まるで金色の空のラストを暗示するかのように。
ところでこの小説のタイトルは『金色の空』なんですが、いまさらながら……ルビをふっておきます。
金色の空……(*´σー`)
読んでくれて有難うございます。