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金色の空  作者: 古流
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52 かくて、ありけり

 高校一年の秋。

 定信義市さだのぶぎいちは一人の女生徒と放課後、音楽室にいた。砕いて言えば音楽の補習授業のためであった。

 女生徒は定信より先に終わって愛想笑いを残して帰っていった。必然的に音楽教師の東条紗枝と定信一人が教室に残った。

 秋とはいえ夏の暑さと気だるさがいたるところに散々、じっとり汗ばむ蒸し暑い秋であった。クーラーは止められ微かに開いた窓から風は入って来ない。全てがどんよりとした重い雰囲気が覆い、校庭では夏の終わりを告げるツクツクボウシが元気なく鳴いていた。

 女生徒が帰って定信が一人になってからは、東条紗枝は別に補習をするでもなく音楽教室の椅子に座らせたまま自分はピアノを弾いていた。

 定信が何度か聞いたことのある曲だった。

「覚えているこの曲……」

 東条紗枝は少し甘えた声で言った。その声を聞いたとき定信は一瞬ドキッとして目頭に光が点滅した。定信が知っている東条先生の授業中の話し方ではなかったからだ。

「はい、聞いたことがあります」

「なんていう曲」

「たしか、栄養満点……マヨネーズ」

「笑わさないで、ショパンよ」

「ショクパン? それじゃ、やっぱり栄養満点マヨネーズ」

「ばか……英雄ポロネーズよ」

「そう、そう、その、栄養ぼろネーズ」

 そんなやり取りの中、言葉はフェードアウトしてピアノの音だけが定信の耳に届いていた。

「この曲。何度か聞いたことがあるわよね……」

 東条紗枝のその声に思い当たる定信義市は、一応、思案気な表情をした。口からは自信なさげにかすかに漏れる声。

「小学生の時、古室由香里の家にイチゴを届けたことがありました。その帰りに古室由香里が弾くピアノが聞こえてきたんです。確か、この曲だった。小学生なのに上手いなと思った記憶があります」

 定信は当時を思い出しながら話をした。なぜか記憶は鮮明だった。それが古室由香里の記憶ではなく、その時、偶然、部屋にいた東条紗枝との再会の記憶であることを定信は気付いていた。弾ける音の向こうでピアノを弾いている由香里の姿はレースのカーテン越しにうっすらぼやけ、その姿はうす雲に隠れた太陽のように霞んでいった。定信義市は心臓の中で風船が破裂してみたいに目を見開いた。

「あれを弾いていたのは由香里じゃなかった。私が弾いていたのよ」

「……」

 定信義市は黙っていた。

 今、東条紗枝がなぜこんな話をするのか定信には分からなかったし、意味のないことだった。問題は東条紗枝と二人でいる居心地の悪さだった。あくまでも授業の延長である時間に心が楽しめるわけはない。それでも定信の心臓は押し寄せる波のように気がつけば早鐘を打っていた。その意味することを理解すれば黙るしかなかった。

「あの子は……古室由香里は、あの時、この曲が上手うまく弾けなかったのよ。いくら練習しても、上手じょうずに弾けなかった」

 その言葉と同時にピアノの音が一音だけ弾け、それはこの世の終わりを告げるように徐々に消えて行った。 


「今日の補習はこれで終わりよ。でも、あと一曲、定信さえよければ聞いてほしい曲があるの。あなたにも関係のある曲よ」

「もちろん」

 定信は、やはりぶっきら棒に答えた。

 その目は東条紗枝のタンクトップから伸びている細くて白い手を見ていた。ペダルを踏む足をみていた。なんて長くて細い足なんだろう。リアルな暑さが気の利いた言葉をむしり取り、意識は白濁した流れに押し流される。

「この曲のタイトルは小さな恋の大冒険というのよ」

 東条紗枝は優しい眼差しを定信にむけた。


 その曲は静かに流れ、時に弾むようにはじけた。

 東条紗枝はその曲を愛しむように弾いているのが分かった。

「いい曲ですね」単純にそう思ったから、そう言った。

「有難う。この曲は三人の話。定信君と由香里ちゃんと……桂木美鈴ちゃんの」

「……」

 定信義市は頭が混乱していた。東条先生が、そのことをなぜ知っているのか。

「驚かないで、由香里ちゃんに聞いたことがあるのよ。その時、由香里ちゃんにせがまれて作った曲なの。即興で作ったのよ。あなたと由香里と幼馴染の子の三人のために作った曲。覚えてる……あの時、雨が降って定信が私をマンションまで送ってくれた時……私はあなたを私のマンションに誘ったことを……あの時、私はこの曲をあなたに聞いてほしかったの」

 その言葉と曲は定信を覚醒させた。

 あの時という言葉が東条紗枝の口から出た時、薄暗いマンションのコンコースの中の彼女のシルエットが脳裏に浮かんできた。


 再び彼女の口から吐き出される言葉。

「あの時……」

 そのとき、突然ピアノの音が止んで東条紗枝はピアノにうつぶせに倒れたように定信義市には見えた。椅子から立ち上がって「先生」と声をかけながら近づいて行った。

 ピアノの鍵盤に黒髪が扇のように広がり、細い肩が震えているように思えた。それをみて定信義市は「医務室の先生呼んでくる」といって走りかけた。

「待って! いいから、大丈夫よ」

 東条紗枝は身体を起こしながら立ち上がった時、眩暈がしたのか定信の身体にもたれるように倒れた。

 そのまま壁にもたれた定信の身体に東条紗枝の重さがのしかかってきた。

「大丈夫ですか……」

 定信は彼女の身体を抱きかかえた。

 彼は胸がどきどきするだけで、いったい何が起こったのかわからなかった。

 こんなこと見つかったら大変とそれが気になる定信義市だが熱い東条紗枝の身体が思考能力を奪ってしまっていた。

 並べられていた椅子がガタッと大きな音をたてた。

「せんせい、」

 定信は一瞬に水分を失った喉からかすれ声を吐き出した。

 甘い香りが汗を含んだ体臭とともに鼻を刺激し心を押しつぶす。

 東条紗枝先生の身体の柔らかさをその手の平に感じたとき、定信はその細い身体を壊れるように強く抱きしめたい衝動にかられた。


 校庭からクラブ練習の元気な声が響いていた。

 陸上部の連中は、時に音楽室を覗きこみピアノを弾く東条先生の姿を確認しては、大いに発奮して青春の光と影の中を走り抜けていく。

 ガンラガラガラ、大きな音が鳴った。

 突然、音楽室のドアが乱暴に開けられた。ドアを開けたのは陸上部のウエアを汗で濡らした轟真悟とどろきしんごだった。

 そこには静かにピアノを引いている東条紗枝がいた。

「先生、居残りの定信はぁ?」

「ついさっき、帰ったわよ」

 ピアノの手を止めて東条紗枝は言った。

「まじぃ、陸上の練習に顔を見せてないからぁ、まだ、い残ってるのかなと思ってぇ……へぇ。じゃ東条先生が一人なんだぁ。なんなら僕がぁ先生のピアノの鑑賞者になってもいいですぅ」

「嬉しいけど、今日はそんな気分になれないわ。いいから早く練習に戻りなさい。それに、もうピアノはおしまい」

「惜しいなぁ、そのボディーを想像しながらぁピアノを聞けばぁビクトリーでグレートなんだけど、なぁぁ」

「ピアノを聞くんじゃなかったの?」

 東条紗枝はそういって右腕でこぶしを作った。

「先生ならぁ、一発やられてみたいですぅ」

 轟は笑っていたが東条紗枝が一歩前に出たのをきっかけに「今度、ゆっくりとぉ拝ませて下さい」ひと声残して走っていった。

 東条紗枝はうなだれるように立ち尽くしていた。

 その横を定信が無表情に帽子をかぶりながら通りすぎていった。行き過ぎる瞬間の切ない沈黙とお互いの体温の喪失。

「今度、先生のマンションに由香里を誘ってピアノを聞きに来ない」

 東条紗枝の声が背後から聞こえた。

 それには答えず、定信は歩みを止めることなく音楽室のドアに手をかけた。

 ガタガタガタとドアが半分開いた。

 そのまま立ちどまり動くことの出来ない定信だった。


 東条紗枝はその時ピアノを弾きながら、その手の向こうに言い知れない切なさを感じていた。

 この小さな恋の冒険に私が邪魔をしていいのかしら、それが単に一過性のことだとしても、この三人のメロディーを私が無謀にアレンジしていいのかしら。

 定信義市がかすかに頷いたのが見えた。そう思っただけかも知れなかった。

 東条紗枝はガタガタとドアが閉まったのを見てピアノの音が止んだ。

 音楽室の窓の隙間から定信が廊下を歩いてゆくのを、彼女はもう見ていなかった。

 鬱蒼とした隙間風に目を伏せた。



夏ですね……。


読んでいただいて有難うございました。

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