50 呼びたまふ、こそ
桂木麻奈美は身体をくの字にして倒れていた。
「大丈夫か?」
心配そうに定信義市と青柳三平は上から覗きこんだ。手招きした女子も慌てて駈けてくる。それを見た定信は一歩足を進めた。その時、三平は両手を麻奈美の肩にかざし意識を集中していた。唇が微かに動くと涼やかに風がながれた。
(閑さや、岩にしみ入る、蝉の声)その言葉に合わせるように指先が右に左にゆっくり移動している。これは三平の内力で相手を治療する俳諧連歌芭蕉拳、絶技、涼気心と呼ばれるものであった。三平の手から発せられる涼気心は麻奈美の身体を包み込む。
その時、かざした三平の手は冷たい感触を感じた。三平の手の上に麻奈美の手があった。その手を強く握りゆっくりと体を起こす。同時に定信が安堵の表情とともに起き上った麻奈美に近づいた。その定信を睨むように麻奈美は言った。
「恋人ならさ……こういう時って、しっかり抱きしめてくれるんじゃないの、定信君!」そこには謎を秘めた大きな目があった。試しているような、挑むような目であった。
「ありがとう。青柳君。もう大丈夫」
三平と麻奈美の手が離れた。
「恋人失格ってとこだな」定信が笑った。その言葉を背中に聞いて麻奈美は「ちょっと待ってて」一言のこして駈けつけた友達と一緒に去っていった。どこからみても元気であった。
今、倒れたのはなんだろう……泣いた子が笑ったとばかり、二人は顔を見合わせた。
「今の、わざとじゃないのか」麻奈美の悪態に対する反発だ。定信が苦々しく言った。
「何のために……」三平は手を眺めながら言った。
「印象つけるためさ」
「誰に」
「さぁね……これだから女のやることはわからないんだ。この一言に尽きるよ」
「じゃ、男のやりたいことは?」
「実に、わかりやすい」
「一言に尽きる」
二人は苦笑いしながら、それでも麻奈美の後ろ姿を追っていた。
その視線の先から斜め15度ほど外れた講堂の入り口付近で人が動く気配があった。
僅かな照明に照らされた二つの影がもつれ合っているように見える。明かりは背の高い女性と背の低い男を映していた。
(東条先生と曲渕介?)定信義市はそう思った。
遠くてよくは見えなかったけど、あの女性のシルエットを忘れることはない。
(なにしてるのだろう?)
定信義市は麻奈美より、そっちの方が気になった。曲渕介の江ノ電の駅で発した言葉のせいだ。
(東条先生の想いは、この曲渕介が受け止めて見せる。定信、お前には負けん)
二人の間に、しばし沈黙があり、意識は無限の彼方に飛んでいた。
三平の声が聞こえなければ、夜が明けるまでそこに立ち尽くしていたにちがいない。
「権俵じゃないか」
覚醒するひとことだった。
「あっ、ほんとだ。権俵が歌ってる」
定信の中学時代の恩師、権俵が指揮者よろしく、その大きな手をタクトのように振って歌を歌っていた。
我は海の子白浪の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ
権俵と生徒たちの合唱が聞こえていた。
「こんな歌も歌えるんだ……」三平の声が聞こえた。
「……」定信は東条紗枝が気になるのか視線に落ち着きがない。三平の言葉を聞き流していた。
「どうしたの!」突然、麻奈美に背中をつつかれた定信は驚いて身体を震わした。再び戻ってきた麻奈美にまったく気がつかなかったのだ。
「呆然として、私なんか眼中になかった」
「いやぁ、一瞬、意識が飛んだ」実感だった。定信は照れ隠しに頭をかいた。それでも気になるのか講堂に視線をやった。麻奈美は両手を頭の後ろにもっていって、定信の周りを歩きながら愛想が尽きたとばかり唇を尖らせて言った。
「どうして、定信君が私に一番先にかつらぎなんて声をかけたのよ。それさえなかった私は三平君の彼女になれたのに」
麻奈美の口を尖らせたまま定信のボディーにパンチを入れた。たいして痛くはなかったが、定信はよろけるしぐさをして足をばたつかせた。
「別に気にしなくてもいいよ。俺はぜんぜん平気だから」
「あんたって本当にデリカシーがないのね。じゃ、私が青柳君の恋人になっても平気なの」
「平気も何も、それは君の自由さ。君は自由だし、おれも自由だし、三平も自由なんだ」
「あんたの自由って、ほんとにつまらないんだから、ったく」
麻奈美はさすがに怒っていた。
権俵と生徒たちの歌は続いていた。
となりのトトロ トトロ トトロ トトロ
森の中に むかしから住んでる
薄い灰色の夏空に蝙蝠が飛翔し、山吹く清き風のような声が漂った。
三人はその歌を聴きながら再び、腰を下ろした。今度は麻奈美が真ん中だった。
「少しの時間しかないけどいい」
「何が?」
「この前、定信君が話していた小学時代の幼馴染の話しをしてくれない。私に似てるって言ってた子の……」
「えぇ、いきなりかよ」
「少しでいいから」
定信は麻奈美の向こうに座っている三平を見た。
「まぁ、三平もいるから……」
つられるように麻奈美も三平に顔を向ける。暗くて表情までよく見えなかったが、楽しそうではないことはわかった。それでも不愉快さはなかった。それどころか本当に女が嫌いなのじゃないかと、そんなことを考えた。
「青柳君も知ってるの、その子?」
微かな戸惑いを眼鏡の奥にかくしたまま三平はうなずいた。
「話すけど、自分の話しじゃなく、物語風に話してもいいか」定信義市は麻奈美を見て言った。
「そんな作家みたいな器用なことが出来るの」
「言っとくけど、下手な作家の短編小説なみだよ……」
「なんでもいいから話して、あくびなんかしないから」
三平は二人のやり取りを聞いていた。そして横に座っている桂木麻奈美の事を考えていた。もう忘れかけている美鈴の事を思っていた。そして定信が何を話すのか耳をすませた。
定信の耳元で蚊が音をたてた。それを手で払うと国語の授業で指名されて朗読する時のようにゆっくりと話しだした。
東条紗枝に急接近する曲渕介。三平に少し気持ちを動かす桂木麻奈美。これはもう病的なほどの男好きか?
次回、桂木美鈴の思い出話です。
読んでいただいて有難うございます。