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金色の空  作者: 古流
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48 口、をひらけば

 桂木麻奈美との約束の場所は定信義一が通っていた懐かしい小学校の校門前だった。

 定信は青柳三平をつれ指定された場所に時間どおりに着いたが、麻奈美の姿は見当たらず時間が過ぎても来る気配はなかった。

 日がゆっくり暮れてゆくのが実感できる時刻であった。

急ぎ足で歩く人々はドガのアプサントを飲む人みたいに気だるそうな表情を二人に向けて行きすぎて行く。知ってか知らぬか三平は校庭で楽しげに輪になっている子供たちを見ていた。

「からかわれたのかな」定信が向けら視線を避けるように目を反らして自問した。同時に校庭を見ていた三平が振り向いた。

「桂木は姿を見せないんだよ……決して」

 三平はここに来る前に定信からいろんなことを聞いていた。もちろん桂木麻奈美のことも……。

 桂木と聞いた時、三平はコンビニの駐車場で起きた出来事を思い出したが、そのことは定信には黙っていた。

 定信から電話をもらった三平は夕飯を用意していた母に「定信と出かけるから、遅くなるけど夕食は取っておいて」と言い残して出てきていた。


 待ち合わせの場所に来る前に、久々に会った二人は児童公園のコンクリートに座ってグダ話しをしていた。小学生の時から、二人がよく遊んだ場所だった。定信が嫌がる三平に桂木美鈴の話しを聞かせたところでもあった。そんな二人だったが、中学生になる頃には桂木美鈴が話しの中に登場することがほとんどなくなっていった。行動領域の違いもあるが、話題にしない空気が二人の間に存在し、それがいつの間にか大きな壁になっていた。

 しかし、その壁も桂木麻奈美と青柳三平を会わせることで、定信の中では僅かながら崩れようとしていた。

「今日、会う娘は北海道の転校生で、桂木っていうんだ」

 三平の顔を覗きこんだ。謎を秘めた横顔がそこにはあった。三平の反応がなかったことに定信は内心がっくりと首を折っていた。

 青柳三平の中では大きな壁が存在し続けているということだ。

 定信は続ける。

「初めて会った時、似てるなぁと思ったんだ。桂木に……小学校の時、転校していった娘を覚えてるだろう?」

 三平に戸惑いの表情が現われ、それは、流れ星のようにすぐ消えた。その変化をうなずいたと定信はとらえた。


「桂木美鈴って、俺たちにとって何だったんだろう?」

 定信は一人ごとのように呟いていた。

「あれ以来、一度も会ってないし、どこに住んでるかも知れないのに……」

 そこまで続いたあと、その話題から逃れるように三平は眼鏡に手をやった。

 何を言っていいのか? 黙って返事をしない三平の気持ちのあらわれだった。


 静寂の風は静かだ。木々が揺れても青柳三平は決して揺れない。


 どれだけ時間がたてば桂木美鈴が脳裏から去ってゆくのだろうか? と定信が無言で問う。

 三平はさらに五里霧中。

 それとも一生忘れられない存在として、懐かしく思い出すのだろうか。

 それはそれでもいいのかも知れない。

 定信義市は思う。

 目をつぶれば現れる暗闇のように……見つけられない物を、いつまで探し続ければいいのだろうか。

 

 定信義市が黙ったとき、三平が一息入れて言った。

「都ぞ弥生の雲紫に、花の香漂う宴遊うたげむしろって歌、覚えてるか?」

 突然のことに定信の記憶の糸が血管を走った。

「覚えてる! 中学の時の担任の権俵ごんだわらに毎日歌わされてた歌だろう。どこの誰の歌かは忘れたけど……」

「北海道大学の寮歌らしいよ」

「寮歌?」

 初めて聞く言葉だった。

 寮歌は大正時代から旧制高等学校で自然発生的に歌われ、音符もなく口伝によって伝えられてきた歌のことで、白線帽、黒マント、高下駄という格好は当時バンカラの象徴で、それは旧制中学生の憧れにもなっていた。三年間のあいだ汗まみれの学生寮で寝起きをともにし、同じ釜のめしを食った寮生同士が肩を組み、渾身の思いで放歌高吟する。


 嗚呼ああ玉杯に花うけて、緑酒りょくしゅに月の影宿やどし……七五調の旧き良き時代を偲ぶ青春歌である。昭和40年代後半に流行し、今でも歌われる「琵琶湖周航の歌」は第三高等学校、端艇部(ボート部)の歌であることをご存じの方も多いと思う。

 苔が生えそうな古い話を定信が知らないのは当たり前だった。


「権俵先生が北海道の人だったのは知ってるけど……それがどうしたんだ?」

 そう問われて、三平はしばらく言葉を止めた。

 定信がその間を埋めようと血に染まった糸を手繰り寄せ、ゆっくりと「都ぞ弥生の雲紫に……」と歌ってみた。

 改めて歌うと古めかしい旋律と言葉に、父方のお爺さんが夕食後、酒を飲みながらよく口ずさんでいた軍歌が甦ってきた。

「北海道の大雪山で師匠が俳諧連歌芭蕉拳の修行をしている。北海道大学に行ければ師匠に会えるかも知れない」

「師匠って……芭蕉拳が、それほど大事なのか……?」

 これに答えるかわりに三平は小声で歌う。

「豊かに稔れる石狩の野に かりがね遥々(はるばる)沈みてゆけば……」ひと呼吸のあと言葉をつづけた。

「都会は俺には向いていない。広々とした大地で俺は勉強したい。芭蕉拳の修行も続けたい」

 三平の表情に曇りがなかった。眼鏡の奥で決意を秘めた目が輝いていた。

 高校生になって逞しく成長した三平の姿を定信義市は眩しそうに眺め、三平なら自分で決めたことを、やるだろうと漠然と思った。

「他にやりたいことは……?」

 定信の言葉に三平は首を傾げて言った。

「なにが……?」

「いや……」

 定信は言葉を飲み込み、思い出したように立ち上がった。

「行こう! 桂木にあわせてやるよ」

「いいよ。俺は女とはしゃべらん」

 男、三平、健在であった。

「まだ言ってるのか、そんなこと」

 定信義一は三平が一徹な性格であると知っていた。無理をしないし、必要がない限りそれを変ることはない。時が来れば変わるし変わらなければ、それは三平の生き方だと理解していた。それでも心のどこかに目を細める定信がいた。強がりは言っても三平も年頃の男である。恋愛をしたくないはずが無いと、手にあまる桂木麻奈美を青柳三平に会わせよう試みたのだった。

 三平曰く、まさにいらぬお世話であった。

「来いよ。きっと驚くよ。その桂木は、三平の覚えてる、あの桂木に、似てるから」

「あの桂木が、その桂木に似てても、その桂木があの桂木に変わっただけじゃないか」

「あの桂木はその桂木かも知れないんだ。あの桂木がその桂木なら、その桂木があの桂木で、その桂木とあの桂木が、その桂木に……」

 定信の口がへの字に曲がり、三平の眉がハの字になった。

 その時、公園の近くを通った古室由香里が声をかけてきた。

「定信君と青柳君じゃない」

 ヘ長調とハ長調が合体したような声と一緒に由香里は公園に入ってきた。

「おう、久しぶり、帰ってきてたんだ」

 定信義一が振り返って由香里を見た。由香里は年頃になって見違えるように女性らしくなっていた。

 年を重ねるほど綺麗になる人がいるが由香里は正にそれだった。子供の頃の面影は無く、見るたび綺麗になっていた。化け方が上手いとは定信、三平の共通した見解だった。

 二人はもう笑わなかった。驚くのみである。

「高校生活は楽しいか?」

 定信義一が久しぶりに会った由香里に当たり障りの無い言葉をかけた。

「女子ばかりで息が詰まりそうよ」

「男子は一人もいないのか?」

「頭のはげたのやら、腰の曲がったのはいるけど……」

 由香里は笑って二人を見た。三平は視線を感じ軽く顔で挨拶しただけで一言も話さない。

「青柳三平君! 彼女できた」由香里は遠慮無く三平に声をかけた。

「やめろよ、三平に、そんな話」

 答えたのは定信だった。

「そんな話って、若い男女が、そんな話をしないでどんな話をするの?」

「三平に話しをするなら、今は北の国の話なんかいいと思うよ」

「北の国って、北海道?」

「北海道大学に行く話しをしてたとこだよ」

「北海道大学? なんで、そんな遠くて寒いところにいくのよ。ここにも大学はたくさんあるのに……」

 由香里は三平を見て言った。三平は苦笑いをして黙っていた。

「……」

「でも素敵でしょうね。北海道って」

「特に三平にとっては……」定信義一は意味深に言った。

「頭いいもんね。青柳君は」

「東大だって行けるよ」

 定信義一はあまり喋らない三平の変わりに一人で由香里のあいてをしていた。

「北海道なら、美鈴に会えるかもしれないわね」

「さぁ……どうかな」

 三平の顔を見ながら定信は変ホ短調で答えた。

「どうして手紙くれなかったんだろう。何時来るか、何時来るかって待ってたら、もう五年が過ぎちゃった」

「そうだ」定信義一は急に思い出したように三平を急かした。

「ごめん! 行くところがあるんだ。三平、行こう」

 由香里に謝って定信義一は歩き出した。三平はその声にしぶしぶついていった。

 後に残った由香里は二人が去った後も、その後ろ姿を寂しげに見つめていた。

 私の中学時代の友人に寮歌好きの変な奴がいまして、放課後など二人でよく歌ったものです。実に変な奴らでした。

 文中の……嗚呼ああ玉杯に花うけて、緑酒りょくしゅに月の影宿やどし……は第一高等学校(現東京大学)の寮歌です。

 都ぞ弥生は北海道帝国大学の寮歌で友人お気に入りの歌でした。私は 旧制大阪高等学校寮歌、嗚呼黎明は近づけりが好きでした。特に(君が愁いに、我は泣き、我が喜びに、君は舞う)の歌詞に万感胸に迫る物を感じてしまいます。

 

 あぁ、昭和よいずこ!


読んでいただいて有難うございました。

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