46 恋は狐、に
目の前に立っていたのは教師でも国語の教師、曲渕介だった。小柄で細身の体に白髪混じりの長いボサボサの髪の毛が後ろで束ねられていて、無精ひげが三十過ぎなのに四十近くに見せていた。
一見して風采の上がらない男であった。
武蔵が原高校では小曲さんと呼ばれていて、間違っても尊敬される存在ではなく、いじられる傾向にある教師であった。
定信とは国語の授業で顔を合わせるだけで、特にこれまで何の関わりもなかった。
そんな曲渕が目の前にいるので、定信は驚いた。
「こまがり……ぁ、曲縁先生?」
曲縁は気弱さを隠そうとやや胸を張った。気管が圧迫されたのか小さく咳きをした。髪の毛が左右に振れ細い目が覗いた。
国語の教師だが、書道の時間も担当していた。見かけによらず、その道では相当名の知られた人だと聞いたことがあった。
固めた手を口におき、か細い声に威厳を込めた。その威厳が定信にはおかしかった。
「定信か」
定信はそう問われて「はい」とキツネに化かされた時のような顔をした。
「先生はどうしてここに……?」
定信が疑問だったのは東条先生と曲縁がここにいる相互関係だった。
定信の視線は東条紗枝が乗っていた赤い夕日に染まる白い車体をとらえていた。寂しげに見えたのは定信の心境の投影だった。
「私はずっと後をついてきた」
曲渕介が一歩二歩ゆっくり歩く。
「ついてきていたんですか?」
「そうだ」
「東条先生に頼まれて?」
「まさか……」
曲縁は頭の後ろで束ねていた長髪が気になるのか、止めてあるゴムをはずし再度止めなおすしぐさを繰り返していた。まぁ、手慣れたものだが、切ればいいのにと定信は思った。
「東条先生は?」
「それだ」
髪の毛のゴムを止め直しながら、しわがれ声が響いた。
決して心地よくはない。内耳神経を刺激する声である。
最初はうんざりしたものだが、慣れたものか最近は授業中でも眠ることさえ出来るようになっていた。
「手短に言う」
手短に願いたいと定信は思った。授業もそうだが、取り留めのない話がくどい。
「三分もかからない」
どこで東条先生の話しを聞いていたのだろう。定信は内心苦笑いをもらした。
「今から言うのは……定信に伝えて下さいと、この曲渕介に言付けた東条紗枝先生の言葉だ。すなわちその言葉は我が胸中にあり、この曲渕介の……」
相変わらず話が長いといらいらしながら、軽く聞き流し帰り支度の事を考えていた。
「ところで、定信はなぜ東条先生と一緒だったのだ?」
話は変わっていて、突然の疑問符に、そんなことどうでもいいだろうと思った。
定信が知りたいのは東条先生がどこへ行ってしまったかである。
「偶然にコンビニで出会って、そのままここに」
「偶然? するとなにか……東条先生と二人乗りをするつもりは無かったのに、と解釈していいわけだな……」
「いゃ、もともとは……だから、偶然コンビニで」
「偶然は必然性の欠如だ。それは不可能の肯定と可能性の絶望をも意味している」
「何を意味しててもいいんですが……」
定信が頭を抱えると、曲渕介は勝ち誇ったように歩みを止めて一息入れた後、こう言った。
「とにかく、結論を先に言っておく。定信は東条先生とは帰らないということだ」
定信は一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。
東条先生の気に障る事でも言ったのだろうか、それで嫌われたのだろうかと不安になった。
「言ってる、意味がよくわからないですが……」
「東条先生は今日、東京には帰らないそうだ。故に、私に定信、お前を託したのだ。それはこの曲渕介を信頼するからに他ならない。そうは思わんかい? 信頼はいつか、愛しみに変わるものだ。よって定信はこの曲渕が連れて帰ることになった……」
そう言って定信の顔を覗き込む。定信は首をかしげながら見た曲渕介の左の頬が赤くなっているのに気がついた。
夕日のせいではない。
「左の頬が、少し赤いですが……」
定信の一言に曲渕介は手で左の頬を隠す。
「つまらんことは気にするな。スキンシップの一つに過ぎん」
定信は曲渕介が東条紗枝から左の頬に痛い一発を受けたに違いないと想像した。
事実、曲渕介は東条紗枝から左の頬に強烈なビンタを食らっていたのだ。
そのことも、全く相手にもされなかった曲渕介にしては蟻の一穴であった。
「でも、東京から江の島までストーカーされたら誰だって怒る」
「ストーカーではない!」
「……」
「この曲渕介。体こそ小さいが、男だ。東条先生に宣言してついてきた」
「宣言して……」
「ついていくと宣言した」
「で、先生はなんて言ったんですか?」
「それは忘れた。そんなことより……まさかおまえ……」
「まさかって?」
「まさか、東条先生と一夜をともにするつもりだったんじゃないだろうな。学生の分際で不謹慎きわまる話だ」
「東条先生を侮辱するような言葉を言っちゃだめですよ。まさか、曲渕先生……東条先生が好きなんじゃ」
「好きで悪いか……これは大人の話しだ。子供の出る幕はない」
定信は前にいる曲渕介をしげしげと眺め、東条紗枝を思い出した。
ついつい口に出た言葉が「釣り合わぬは不縁のもと、ですよ」
「生意気言うな! 想いの大きさは誰にも負けんつもりだ。釣り合わないはずはない。釣り合わぬは定信、お前だ。東条先生と二人乗りするなんざ、十年早い!」
小柄な細身の体に似合わずタンカは歯切れがいい。
一息の間があった。
「東京まで乗せてもいいが、二人乗りはあまり好きじゃない。近くの駅まではこれに乗って行け。後は電車で東京へ戻ろうと大阪へ行こうと知らぬが仏だ」
「大丈夫です」
「人の好意はうけるものだ。ましてや私は教師。君は生徒だ」
そう言ったものの、曲渕介の表情にどこかほっとしたものがあった。
「一人で帰れます」
東条先生がここに戻って来ないのなら、一刻でも早くこの場を離れたい心境だった。
「頑固な奴だ」
その言葉を背に定信は東条紗枝の白いスクーターに近づいていった。そして彼女が向かった方へ目をやった。
すでに彼女の姿はない。定信は息を大きく吸い込んだ。両手に力を込めて身体の前に突き出した。
定信の一休拳であった。
それを見た曲渕介は一歩二歩と後ずさりした。
「落ち着け。乱暴はいかん! 話せばわかる」
定信はそんな曲渕介を見てニタッと笑った。
「頑固で結構! 丸くとも 一角あれや 人心 あまりに丸きは 転びやすきに……」
「なんだ、それは? 何の呪いだ?」
定信は一休拳の余韻を残して、そこを立ち去って行った。
どちらが国語の教師だかわからない。
江ノ電の小さな駅に4サイクル単気筒の小気味いい音が響いていた。
ぶすっとした表情で後部座席から降りた定信に、小柄な曲渕介が声をかける。
「東条紗枝が気になっても、ここには戻ってくるなよ。子供の時間は終わったのだ。親が心配してるから、早く帰ってやれ」
不思議な一日を振り返るように曲渕先生をかえり見た。曲渕介は定信を手招きしていた。定信は頭をかきながら歩み寄った。曲渕介はヘルメット越しに小声で言った。
「東条先生の想いは、この曲渕介が受け止めて見せる。定信、お前には負けん」
定信義市は改札に頭を抱えながら歩いていった。
丁度、鎌倉行きの電車がガタゴト、ガタゴトと入ってきたところだった。
定信義市にライバル登場!
東条紗枝先生の心境はいかに?
雪がすごいことになってます。
読んで下さって有難うございます。