44 あすは、雲間に
初めての体験は定信をわくわくさせていた。鎌倉は一度も行ったことが無い街だったし、出来れば江の島まで行きたいと東条先生に直訴しようかと思っていた。
鎌倉方面に向け走る白い車体はフォーサイクルの静かな音を国道の焼けたアスファルトに響かせていた。定信はオートバイのエンジン音はもっと甲高い金属音をイメージしていたが、意外と低い音だったのでバイクというよりフルオープンの車に乗っている感じがした。
定信が驚いたのは対向してくるライダーが、すれ違いざま必ず左手を挙げてピースサインを送ってくることだった。東条先生も慣れた様子で左手を上げてVサインを作る。何台かやり過ごすうちに定信も慣れない手つきでサインを送る。ライダーはそれに答えて手を上げてくれた時は初めての経験のせいか、こんな世界もあるんだと胸が熱くなった。
一時間ほど走って休憩したところが、なぜか温泉施設だった。
「汗を流しましょう」
東条紗枝はそう言って中に入っていった。定信も後に続いた。そこは天然温泉がある大きな銭湯だった。
中には広いくつろぎスペースがあって、食堂では食事もゆっくり出来るし、流行りのマッサージも、ゲームの設備もあった。ビリヤードをやる人やら卓球を楽しみ人やらで、昼間から賑わっていた。
定信は軽くシャワーを浴びると東条先生が姿を見せるまで壁際に置かれてあった長椅子に腰をおろし窓越しに外を眺めていた。
広い駐車場の一角に白いカーボンボディーの車体が、檜の下で涼しげに止まっているのが見えた。定信の目が、そのまま少し左に移っていれば、何かしら妙なものに気がついていたかもしれない。気がつかないまでも目の中に景色の一部として捉えていただろう。そうならなかったのは、その時、鮮やかなサーモンピンクのTシャツを着た東条紗枝が姿を見せたからだった。
胸にはHONDAのロゴが銀色に光っていた。定信を驚かせたのは太ももの一部が手の平ほどの大きさに破れた、いかにも年代物のリーバイスの気古したジーンズであった。
考えれば、定信にとって東条紗枝はいつも驚きの人だった。
初めて会った小学生の時から、今までずっと……。会うたびに新たな発見があった。
東条紗枝は定信を見つけると周りにいる他の客の視線を一身に集め、自らのそれを意識しつつ定信に近づいてくる。どうしようもなく、その美しさは際立っていた。
定信もそんな様子を感じて、自分のところに向かって歩いてくる美しい女性を誇らしげに眺めていた。
彼女は定信の前に来ると、その横に腰を下ろして長い足を組んだ。破れた部分からのぞく太ももの白さが定信の目を刺激して、やはり避けるように目は窓に移る。
彼女は手にしていたコーラーの一つを定信の前にあるテーブルに置いた。
東条紗枝が同じように窓に目をやり、子供の姿を見失った母のように戸惑った表情で動きを止めたのを定信は気がついた。
彼がコーラーのお礼を言い、それに手を伸ばし、コーラーのグラスの中で氷がカラーンと音を鳴らす間。
風は流れて木々の葉を揺らした。
白いビッグスクーターはサーモンピンクのTシャツの上に、長そでのスカジャンを羽織った東条紗枝と定信と乗せて再び走り出した。
彼女はずっと前から気がついていた。
二人の後を影のようについてくる一台のオートバイがあるのを……。それを知っていて、時々バックミラーで確認する。
走り出して半時間が過ぎていた。
バイクは国道から外れ、古ぼけた山門のある小さな寺の門前で止まった。
「ごめんね。海を見る前にお墓を参らせて、お墓参りは一人で行くとよくないって言うから……定信も一緒に来て」
「はい……」
それしか答えられなかった。
寺の横にあった万屋で献花を買って東条紗枝はにっこり笑うと定信の腕を引っ張るように中に入って行った。
寺の境内には樹齢何百年も過ぎた銀杏の巨木があり、そこをさらに奥に少し歩くと墓地があった。
定信義一は素直についていった。
墓地の入り口に蝋燭と線香が置いてあった。その線香に火を頂き狭い通路を転ばないように進んだ。
東条紗枝が立ち止ったところには石碑ではなく木の碑が建てられていた。
木の碑を見て、定信は死んでそれほどたっていない人の墓なんだろうと、根拠なく考えていた。
墓地を囲むように林立する木々のあちこちから蝉の鳴き声が聞こえていた。
東条紗枝は墓前で手を合わせていた。長かったように思うし、短かったかも知れない。
定信は離れて見ていた。その姿を見て、きっと大切だった人のお墓なんだろうと思うだけだった。
東条紗枝は合わせていた手をゆっくり離した。
「さぁ行きましょう」明るい声がした。
定信にはその明るさは唐突にすぎる感じがした。泣いていたのかもしれない……それを振り切るための明さに違い無いと……。
定信は、心が落ち込んだ時、落ち込んだまま、それに沈み込んでゆく人がいるのを知っていた。
心が泣いた時、それを慰めるように、明るく振る舞いたがる人がいることを知っていた。
なぜか、鎌倉を通り過ぎていった。
白いカーボンボディーの車体は風を砕き、景色を置き去りにして、なおも走り続けていた。
どこへ行くかを聞いても「海よ」と言うだけだった。
定信義一は音楽も苦手だったが、地理がもっと苦手であった。西と東が時には北と南に入れ替わり、九州に宮城県があったりした。
いつしか左手に海が広がる道を走っていた。
鎌倉は通り過ぎて、道路の標識を見ると定信の思いが通じたのか、江の島の方に向かっているようだった。
風が音を消し、背景が確かな姿を見せたとき、東条紗枝の白い車体は海水浴場から少し離れた人がいない場所で止められていた。
東条紗枝はスカジャンを脱いだ。
遠くには海水浴客の水着が絵具のパレットみたいに色とりどりに染める浜辺を眺めて、東条紗枝は浜辺に引き上げられている小さな手漕ぎの船のひさしにもたれていた。
定信義一は、太平洋の見える場所にいて……。
浜辺の砂を洗う波の音を聞いてはいないし、海水浴場を彩る人の群れも見てもいない。
海を横切る船を追う気にもならないし、東へ向かって飛んでいるジャンボジェットに目をやるわけではなかった。
東条先生の心の中の音を聞き分け、色を確認し、微かな動きに耳を澄ませ、遠くの物体さえ見逃さないように神経を砥ぎすませていた。
「こんなところまで連れて来ちゃってごめんなさいね」
定信義一はただ、ニコリとしただけだった。
謝る先生の表情が、どこか空虚だと感じた。
人には弱いところを見せないと言っていた人なのに、今、定信の前で呆然としている姿に、それが本当の東条紗枝なのか、空想の世界の出来事なのか、わからなくなっていた。
定信はそんな東条紗枝を、やはり憧れに近い、むしろ、それ以上の想いで眺めていた。
今までの先生との関わりが、夏空の入道雲みたいにむくむくと甦ってきた。
定信義一は思い出したように携帯を見た。そこには麻奈美からのメールが数珠つなぎに入っていた。
それを、今、見る心境にはなれなかった。麻奈美の事はどうでもよかった。目の前にいる東条紗枝の切なそうな横顔が定信にもせつなかった。
何も語らない東条紗枝に時間だけが賞味期限切れのカステラのように脆くも崩れさっていく。せめて記憶だけは鮮明とどめたいと定信は東条紗枝を見つめていた。
これほど見つめたのは初めてかもしれない。
「ありがとう」
誰に言うともなく東条紗枝の口からでた。
それは漠然と漂っていた。
定信しかいないのだから定信に言ったものだろう……ただ、違う誰かに言ったようにも聞こえた。
定信義一は携帯で時間を確認した。
もう夕刻が迫り、砂浜を染めていた色とりどりの水着が白い砂の色を浮き立たせるほど少なくなっていた。
遠くに聞こえていた雑多な歓声も不規則な波の音に変わっていた。
ツーリングの初体験はわくわくさせるに充分です。
東条紗枝のような美人とタンデム出来るなんて、定信義市はなんて幸せ者じゃ!
読んでくれてありがとうございます。