43 うれしや、風に
回転するタイヤはアスファルトをとらえ、ロングストロークのエンジン音は心地よく振動を伝えていた。二人を乗せた白いカーボンボディーの車体は、それ自体意思を持った生物みたいに未知なる遭遇へと突き進んでいった。
バックグランドは無造作に描きなぐられた抽象画のようであり、風の一部となってちぎれ飛んだ。
東条紗枝のゴールドブラウンの髪の毛が定信義一の鼻先をかすめ、芳しい香りとともに汗の匂いが眉間を刺激する。
時々、彼女の声が細切れに聞こえてはいたが、定信には全ての声が聞き取れなくて曖昧な返事を繰り返していた。こっちが聞こえないのだから、曖昧な返答も先生に聞こえないだろうと定信は推測していた。
前から後ろに声は流れて聞こえても、後ろの声は後ろに流され聞こえないとは、定信流の理屈であった。
定信の初めてのツーリングは時間が過ぎるにつけ、遊園地でジェットコースターに乗る時のような興奮から、メリーゴーランドに乗っているようなふわふわした気分になっていた。
後部座席が思ったより風圧を受けないこともわかった。背もたれが身体をがっちりガードしているため安定感もあった。余裕が出たせいか、定信のパンツのポケットで麻奈美のからのメールが携帯を振動させているのがわかった。
今、約束の場所で待っているかも知れない麻奈美を想像して、何か悪いことをしたような気分が黒い竜巻のように定信に近づいてきた。
キャンセルをした麻奈美を責めても、一人で待つ麻奈美を想像すると定信の優しさの欠片が、その欠けた部分を埋めるべく存在を誇示し続けるのだった。
いくら待っても定信がこないので、麻奈美は再びメールを送っていた。
何度も何度も……それも驚くほどの長文で……。
定信義市は、この数時間ののち、左右の眼が合体して一つ目小僧になるような驚きのメールを拝むことになるのである。
さらに、待ち合わせの場所でサプライズな出来事が起ころうなどとは想像すらしていなかった。
桂木麻奈美は頭に日除けの麦わら帽子をかぶり、コバルトブルーのプリントTシャツに洗い晒しのジーンズをはいて、定信が来るのを一人でぼんやり待っていた。
一人で定信を待っている麻奈美の横を、白い半袖のシャツに紺色の綿パンをはいた眼鏡の高校生が通り過ぎようとしていた。
二人がコンビニの駐車場の片隅で交差する刹那、高校生の眼鏡の片隅には麻奈美の白い姿が映っていた。
麻奈美も通り過ぎようとする高校生に気付いて驚いたふうに笑顔を向けた。
その瞬間だけを切り取れば、二人は見知らぬ人同士だと思えないほど温かさに包まれているように見えた。
それが、単に偶然な出来事だとしても……。
眼鏡の高校生は麻奈美の姿から目をそらすように一息入れて空を見た。空を見たのは不思議な感情を静めるためだった。その口から、杜若 似たりや似たり 水の影と微かに風とともに呟き出た。
これは芭蕉の句の一つ。芭蕉の句で風を呼ぶことの出来る高校生は一人しかいない。
俳諧連歌芭蕉拳の一子相伝、青柳三平である。
青柳三平の口から吐き出された一句は、すれ違った女性に懐かしい人の面影があったことへの戸惑いだった。その戸惑いが三平の歩みを遅くし、空を見させ、眼鏡の奥に灰色の帳をかけた。
三平と麻奈美がすれ違い、交差するしばらくの間。
それが単なる偶然に過ぎなかったと言い切れない何かがあることを、次の瞬間、耳にすることになる。
過去の思い出をぶち込んだ引き出しが開き、三平の足が何か細い糸で引っ張られたように前に進めずにいた。かわりに記憶の末梢神経が高速で逃亡をはじめる。その逃亡を助長するように、麻奈美が足元に転がっていたコーヒーの空き缶を蹴って大声で叫んでいた。
「さだのぶ、の野郎!」
ここで細い糸は異次元の彼方から現実の世界に舞い戻ってきた。
(さだのぶ……)三平が頭で呟いた。
空き缶はその頭めがけて弧を描いていた。
麻奈美は口に手を当て、首をすくめるように空き缶の行方を追った。口に手を当てたのは、先になにが起こるかある程度予測できたからだ。まさに空き缶は三平の頭にぶち当たる寸前だった。
さすが芭蕉拳の後継者である。
当たったと思った空き缶は三平の足元でカランと金属音を立てていた。
(さだのぶ)が定信義一のことかどうかはわからないが、それほどポピュラーではない名字だから、定信のことかも知れないな、あいつは妙に女にもてるから……。
そんなことを考えながら三平は足元で音をたてて転がっている空き缶を見た。
後ろで麻奈美が頭を下げて謝っていることなど気付いてはいない。なぜ足下で空き缶が回転しているのだろうと不思議に思っただけだった。
三平は目をあげ、何もなかったように右手で眼鏡を押えた。そのまま行けば単なる偶然で終わっていた。
事はそう簡単には終わらせてくれない。
麻奈美の元に一人の男が近づいてきた。
細い糸がゆるんで歩きだした三平の耳に聞こえてきたのが、その男が吐き出した言葉だった。
三平が覚醒するに充分過ぎる言葉だった。
「よう、かつらぎ」
三平の足に再び緊張が走り、糸がピーンと張った。漠然と考えたのは連続した偶然の存在だった。さだのぶ、の野郎と悪態をついていた女子と、その女子を桂木と声をかけた男。この偶然を考えていた。
さだのぶとかつらぎ。
三平の思い出の引き出しから、とんでもない時代遅れの映写機と継ぎはぎだらけのスクリーンが飛び出した。
久しく聞かなかった二つの言葉が、振り返らない男、青柳三平を振り返えらせようとしていた。
しかし、青柳三平は男だ。
決してそんなことはしない。
女を振り返ることはしない。
何もなかったように行き過ぎて行った。
桂木麻奈美は怒りにまかせて足で蹴った空き缶が、人に当たらなかったことにほっとしたように肩をすくめた。それはすべて定信義一が来ないことへの苛立ちの表現でもあった。もともとキャンセルした自分ではなく、来ない定信を責めた。
なぜ、メールをくれないのか……。約束したのに来ないなんて男として最低!
やりきれない思いを秘めて、声の方に向き直った。同じクラスの美術部の木暮祐介がスケッチブックを手に立っていた。最近、特に仲良くしているのが小暮だった。やや髪を長くし不似合いなベレー帽をかぶっていた、その風貌は見るからに芸術家を意識していた。
ものは形が大事だ。話はそれから……。小暮の持論だった。
桂木麻奈美を絵のモデルにしようと、しきりに誘っていた。
こんなふうにして桂木麻奈美は男子の受けは格段に良かった。逆にそれが女子からは反感を買う材料にはなった。それでも轟が身を引いたように桂木麻奈美から男は離れていった。離れないまでも一定の距離を置くようになる。
野球部の伊達以外は桂木麻奈美と親しく話をする男はいなかった。
定信のように麻奈美が無視するわけではないのに、自然と距離を取るようになっていった。それでも新しい男友達はすぐに出来た。それが今は小暮だった。
それがなぜなのか麻奈美自身は分からなかったし、さほど気にもならなかった。
これが桂木麻奈美と青柳三平と出会った最初だった。
次の出会いもすぐにやってくるのだから、縁とは不思議なものだ。
偶然、桂木麻奈美と三平が出会っているなど想像もしていない定信は、東条紗枝との初めてのツーリングに訳もなく感激していたのだ。
三平と麻奈美の出会い。連続する偶然は三平を混乱させる。
しかし、三平は連続する偶然はあり得ないことを定信義市から聞いて知っていた。
定信は忘れな草殺人事件を解決した迷探偵だからである。
それでは失礼、ワトソンくん。
読んでいただいてありがとうございます。