42 身にさかる、夏
待ち合わせの場所はコンビニの駐車場。
時間に早く来たため、定信義一は暑さしのぎをかねて店内をブラブラしていた。手にしていた携帯が振動して内容を確認すると小さくため息をついて外に出た。
その時、コンビニの駐車場にミッキー・ロークばりのワイルドな爆音が轟いた。
黒いレザーのつなぎを身にまとった女性ライダーが白いカーボンボディーのビッグスクーターを操っていた。
ブルーメタリックのヘルメットからは鮮やかなゴールドブラウンの髪がのぞいて風が光の尾を引いた。
定信が店から出て、道路に向かいかけたところで白い車体と交差した。
その姿態は、定信が振り返りたくなるほど美しい完全な存在に見えた。まるでミラ・ジョヴォヴィッチがスクリーンを突き破り、定信の目の前に覆いかぶさってかのきたようだ。……かろうじて振り返るのを我慢した直後、定信義一の耳に聞きなれた声が飛び込んできた。
声が聞こえた時、定信は間抜けた顔で空を見上げた。
そんな定信を見て明るい笑い声がした。
「いつからかしら……声が、空から降ってくるようになったのは……?」
定信義一はその声にも、やはりあたりを見回した。まさか、声が黒いレザーの主からだとは思わなかったのだ。ヘルメットのゴーグルのせいかも知れなかった。
「ここにいるでしょう……」
白いカーボンボディーの横に立っていたのはヘルメットを外した武蔵が原高校の音楽教師、東条紗枝だった。フルフェイスのヘルメットを被っていたのでわからなかったのと、髪の毛の色のせいだった。定信の知っている東条紗枝はやや褐色がかった黒髪だった。
今、ゴールドブラウンの髪の毛が黒いレザーの上で左右に揺れている。
「桂木さんと待ち合わせかしら?」
皮肉に聞こえる言葉に、定信は内心冷や汗をかいていた。
事実、桂木麻奈美からメールがあって待ち合わせをしていたからだ。そして、たった今、桂木麻奈美から行けなくなったとNGメールが入ったばかりだった。
定信義一は照れたように笑って頭を下げて、否定も肯定もしなかった。
「少しの時間、先生とタンデムしない」
「タンデム……?」
「二人乗りよ。鎌倉の海を見に行くんだけど、ソロじゃ淋しいし……」
美しさの視覚効果を知っているのか、白いボディーに片手をついた斜め十五度の立ち姿は定信の目の焦点を空ろにしていた。身体にはりついたレザーの陰影はその見事なプロポーションをより際立たせて高校生の定信義一には眩しかった。
定信は東条紗枝の姿を長くは正視できなかった。その存在感の美しさに気後れさえした。迷う思いは断る口実を探りながらも、興味を引かれてスクーターに近づいていった。
「うちの高校、バイク、いいんですか?」
「バイク通学は禁止されてるけど、それ以外は許可されてるはずよ」
定信義市は、そうだったかなぁ、そんな顔をして頭を傾げた。
「先生の運転、大丈夫ですか?」
「野暮なことを聞く子ね。定信君の音楽のテストと一緒よ。やってみなければわからないわ」
近づくとほのかな柑橘系の香りが匂った。その香りには魔法が掛かっているのか、東条紗枝の声すら定信義一の耳には細切れになって届いていた。
想像以上に動揺していた
「乗ったことあるの?」
「……いや、乗ったことはないです」
「ほっ、私も初めてよ。人を乗せるの」
彼女は定信義一を乗せて走るのが決まったような言い回しをした。それで、定信はもう断ることが出来なくなってしまった。やはり魔法にかかっていたのかも知れない。
「そんな皮のつなぎ着て、暑くないですか?」
夏に皮のつなぎは無いだろう、と定信は思ったが違和感はなかった。東条紗枝が余りにも格好よく涼しげに見えたからだ。
その質問にも、彼女は汗一つかかないで答えた。
「暑い、かも、知れないわね」
「汗、かかないですか」
「もちろん、びっしょり。でも、素肌を流れ落ちる汗が敏感に肌を刺激して、結構、気持ちいいのよ……」
素肌……?
嘘か真か、その一言で異次元空間を迷走した定信の妄想は、むくむくと首をもたげ、背中に快感を伴った汗が流れおちた。
同時に吹きあがったスクーターのエンジン音で定信の妄想は遮断され、異次元空間の迷走は空気が抜けた風船みたいに一気にしぼんだ。
東条紗枝はすでにシートにまたがっていた。シートの下から取り出したヘルメットを定信に手渡しながら言った。
「ここから先は、一丁目があって二丁目のない世界よ」
「おっかねぇ」
定信はヘルメットを受け取って、慣れない手つきで被ろうとするが、それがうまく入らない。それがおかしいのか東条紗枝は笑いながら見ていた。
彼女の助言が聞いたのか痛い、痛い、を連発しながらもヘルメットは定信の頭に収まっていた。それを見て東条紗枝は髪をまとめると慣れた手つきでヘルメットを被った。
定信は恐る恐る東条紗枝の後部シートに乗るために片足をかけた。その時、胸ポケットの携帯が鳴った。着信音ですぐに麻奈美からのメールだとわかった。
定信は急いでメール内容のチェックだけをして携帯を閉じた。
「行くわよ! しっかり掴まってるのよ」
定信は慣れない手つきで前席の後ろに付いているベルトを掴んだ。最初は不安定だったが背中の背もたれが彼に安心感を与えた。
それにしても、麻奈美からのメールのタイミングは最悪だと定信義一は臍をかんでいた。
メールの中身は(ごめん。行けるようになったから、今から行くわ)
人の都合を聞かないのが麻奈美らしかった。
定信はスクーター座席にまたがって両肩に力が入っていた。メールを返信出来る状態ではなかった。
もしかしたら、自分の都合で人を振り回す麻奈美を少し許せなかったのかも知れない。またドタキャンされるだろうと、うんざりした思いが彼を取り巻いていた。
スタートはいきなりだった。
先生は綺麗だけど運転は荒っぽいと、後ろに反りかえった身体を元に戻しながら、これまで体験したことのない世界が待っていそうな気がして、定信の胸は異常に高鳴っていた。
目の前には東条紗枝の汗で濡れた背中があり、景色を流し去る速さがあった。
麻奈美のことなど、すっかり忘却の彼方へ消し飛んだとしても、それは仕方がなかった。
エンジン音は二人を乗せた白いカーボンボディーとともに次第に小さくなっていった。
その後、待ち合わせ場所で一人、定信が来るのを待っている桂木麻奈美の姿があった。
定信はそんなことが起こっているなどとは想像すらしていなかったのだ。
いたって平凡な定信義市になぜか女の影が……。
東条紗枝がグレードアップして登場!
次回は東条紗枝の秘密が少し明かされます。
いざ!鎌倉へ。
読んでいただいて有難うございました。