40 問ひたまう、こそ
「えっ……」
定信義一は聞こえなかったとばかり麻奈美に耳をよせた。
その大歓声が何なのか離れている二人にはわからない。わからないし、どうやら本当に興味がないみたいだった。
麻奈美はベンチに座って両足をぶらぶらさせて、その歓声に遠い視線を向けた。
その後、書きかけのテキストを読むように麻奈美はゆっくりと定信に語りだした。
定信義一が聞き上手なのか、ジョギングしている人のランニングシューズの音が公園の4キロ周回道路を回ってくる時間、麻奈美は話し続け、定信は聞き続けた。
麻奈美は話しおわると小さく息を吸って宙を見つめた。
ファンタジーワールドをさまよい一人の勇者が現れるのを心細く待ち続ける碧眼の少女のように……。
麻奈美がどう生きてきたか定信には興味があった。
歓声に消されたが、確か麻奈美は小学校の事を語ろうとしたはず……定信には断片的にしか聞こえなかったが、その言葉は 散り散りに耳に残っていた。
しかし、その後、麻奈美が話したのは過去におきた出来事ではなく、これからの夢の話だった。
「へぇ、そんなことを考えてるんだ……」
麻奈美が話し終わってから、定信が声を出すまで少々間が開いた。
オーケストラの演奏が終わって指揮者のタクト止まり、拍手が起こるまでの微妙に躊躇する間に似ていた。
麻奈美は様子をうかがうように定信を見た。
その前の周回道路をランニング姿の一人の女性が走り抜けていった。
「走る人の姿って、すごくきれいに見えるね」
麻奈美は言った。
「今、走って行った人……のこと?」
「そう、とてもきれいっだった」
定信がそっちに視線をむけた。緑の中をゆっくり走っている女性を見つめた。
麻奈美は何が言いたいのだろうか……。
疑問は不安をもたらす。
「目の前を過ぎていく全てのものは、もう帰ってこない。今話した言葉も一年もたてばすっかり忘れてしまう。どんなに大切な言葉でも消えていってしまうでしょう」
詩を朗読するように抑揚を抑えた麻奈美の声があてもなく漂った。
定信は桂木麻奈美が己が理解を超越していることを忘れていたわけではなかった。
何もかもがわからないだけだった。
わからなくても、それでいいのだろう。それが桂木麻奈美の個性なのだと無理に思ったりもした。
定信義一は麻奈美が語った一語一語を思い出そうとしていた。
その時の心の動きすら思い描こうと……。
そして頭の中でジグソーパズルをはめ込むように組み立てた。ところが肝心な最後の一枚が見あたらない。
「今日はありがとう。話聞いてくれて」
「うん」
返事はしたものの、麻奈美が話した全ては答えのない闇への道案内だった。さらに定信は闇の中をさまようことになった。
なぜ?
なぜ?
なぜ?
問い続けることで、答えを見いだそうとしているかのように……。
人生のすべてを受け入れた老人が、答えることの無意味を悟ったように……。
答えることで、失うことの多さを知った人のように……。
答えを忘れた振りをして、定信義一は問い続けた。
答えを知ることが全ての解決にはならないと言うことを定信は知らなくても、それを求めている何かが存在することを僅かに感じていた。
「じゃ、私帰るわ」
ベンチから立ち上がった。
定信も続いて立つと、麻奈美が歩きだそうとする背中に向けて声を出した。
「一つだけ、聞いてもいいか?」
さらに、定信は答えのない問いを続ける。
振り返った麻奈美の肩にかかる髪の毛がしなるように波打った。
少し頭を傾げたのが返事だった。
「桂木……の初恋の人って、本当に……俺に……」
「ふふ、そう言ったはずよ」
定信が最後まで言い終わらないうちに麻奈美の言葉が重なった。そして、話すだけ話したら終わりとばかり、さっさと歩きだした。
定信義一のジグソーパズルは埋まらないまま放置されることになった。
どういう生き方をすればこんな風な性格になるのだろう。
腹の中では舌打ちして、なんだよ、と悪態をついていた。
「野球部の試合の結果、知らなくていいのか」
「知ってどうするの。勝っても負けても関係ないし、私の頭は今混乱中だから、一人になって落ち着きたいの」
「僕も一緒に、行くよ」
「少しならいいわよ。あなたの邪魔はできないもの……。それで、私の邪魔をしないなら、ね」
さっさと歩いて行く麻奈美は近くにあって手が届く距離なのに、その存在は3D映像のように見えないスクリーンの間にかすんでいた。
二人は黙ったまま、公園を出口に向けて歩いていた。
野球の試合が終わったのかサイレンが鳴った。
そのとき、定信に驚きはなかった。遠くに離れていたせいもあるが、それ以上の驚愕すべき不確かな存在が横を歩いているからだった。
定信は黙ったまま、さらに問い続けた。必死でジグソーパズルを埋めようと……それは一人ごとのように自然と口から湧き出ていた。
「もうひとつ、聞きたいことがあるんだ……」
一歩前に足を出し、息を一息吸い込んだ。
「ずっと前から……君は僕を知っていて、僕も君を知っていて……」
そのつぶやきは麻奈美の背中を押した。その問いから逃げるように早足になった。
「なに、急いでんだよ」
問うことの意味なんて、どうでもいいとばかり、頭の頂点から声を出した。
「私は混乱中だから、落ち着くまで、邪魔をしないで」
公園の出口を出た。
バス乗り場は五分ほど歩いたところにあった。
その反対方向に向いて歩きだした。
定信義一が「バス停はあっち」声を出そうと左手を向けたが、邪魔しないなら、の約束を思い出して黙った。
公園を出て、ほっとしたのか麻奈美の足取りは幾分遅くなっていた。そのぶん世間の歩みが早く感じられた。
車が猛スピードで走り抜け、さらにバイクがそんな車の間をジグザクに抜いていく……自分だけは事故に遭わないと不確かな論理の鼻歌を歌いながら……。
定信の歩みもそれにつれて遅くなる。
麻奈美は黙って歩いていた。何かを考えているようでもあり、考えていないようでもあった。
公園の道から真新しく造成された住宅が立ち並ぶ通りに出た。麻奈美は行く場所が決まっているのか、ゆっくりだが確かな足取りだった。やや後ろを歩いていた定信はその後ろ姿を見ながら、轟慎吾が言った言葉を思い出していた。
定信義一が重い意識を引きずりだした、そのきっかけになった言葉であった。
親友でありながら、時として非常に迷惑な男であった。
どうやら、唐突な言葉ほど記憶に残るものらしい。
麻奈美が突然発したあなたは私の恋人よ。その言葉が定信義市の頭の天辺にへばり付いているのと同じように……。
轟真悟は定信義一に、こう言ったのだ。
「俺は考えた。あの桂木麻奈美は、さだのぶの言っていた桂木、じゃねぇかとぉ……」
「桂木って、前に話した幼馴染のことか。まさか……」
その後の言葉を遮って、轟真悟は自信満々に言った。根拠は気薄だが自信だけはいつもあった。
「驚くのはわかる。まぁ、俺の天文学的考察によると、砕いて言えばサザンクロス系第六感だな……」
定信義市は桂木麻奈美を初めて見た時からずーっと……それを考えていたのかも知れなかった。
確信に近い矛盾と不適格な存在として……。
「でも名前も違うし……」
「名前は変えられるだろぅ。現に小児喘息のひどかった親戚の娘がぁ、通称を変えたのを知っている」
「でも、それならなぜ知らない振りをするんだろう……」
考えるたびに途方にくれる疑問だった。
轟真悟はその疑問にも、いともあっさり答えを出してみせた。
恐るべしはサザンクロス系第六感である。
「ちがうなぁ。さだのぶが覚えていても彼女のほうでは、そんなことすっかり忘れているということだよぉ」
轟真悟の思いやりはさすがであった。
「忘れている……」
「事実を受け入れなければ前に進めないんだぁ。サダノブとあいつの仲は最悪だ。それで充分だろぉ」
定信は見事に断言した轟真悟をまじまじ見つめたものだ。
確かに最悪な仲だった。
その桂木麻奈美が定信義市の横を歩いていた。
轟真悟が言った定信義市の存在を忘れているということを実践するかのように知らぬそぶりで……。
大豪高校と武蔵が原高校の結果はさておき、急展開に時間がついて行けない事態が発生してます。
次回はさらに訳が分らぬことに……。
それを人は時にKAGEROUという。
読んでいただいてありがとうございました。