39 されば落葉、と
グランドでは練習が始まっていた。
両チームの応援団が声をからしたエールの交換も終わり、吹奏楽部の軽やかなマーチとともに、スタンドからは大きなどよめきと歓声が唸りとなって聞こえていた。
その歓声に急かされるように公園の緑の並木を足早にくる桂木麻奈美の姿があった。黄色いシャツに白い長そでのカーディガンがひらひらと揺れていて、頭には赤い日よけの帽子がちょこんと乗っていた。
麻奈美の姿を見つけ定信義市が立ちあがると同時に武蔵が原高校と大豪高校の試合を開始するサイレンが鳴った。
二人は約束していたかのように立ち止って空を見上げた。
サイレンの音は人を緊張させる効力があるようだ。木々の色さえセピア色に見えるほどに、空の青さえ雲に隠れるほどに……。
麻奈美は定信を見つけると早足の歩みが、かけ足に変わった。
球場の周辺はたくさんな人が、それぞれの足取りでおのおの目的の場所に向かっていた。
試合開始のサイレンが鳴っても定信と麻奈美はあわてる様子もなくゆっくりと歩いて行く。
スタンドでは一塁側に大豪高校、三塁側に武蔵が原高校が陣を構えた。その大豪高校の先発が発表されたとき、両軍の応援席より大きな歓声が上がっていた。
熱気は東塔学園を破った時以上にヒートアップしていた。観客は鈴なりで開いた席を求めてスタンドの上まで人が移動していた。
まさに超満員だった。
試合は大豪高校の先行で始まっていた。
麻奈美と定信は球場の正面入り口を通り過ぎた。定信は怪訝な表情で麻奈美を見たが、麻奈美は表情を変えずに白いハンカチで額の汗をふく。
「暑いわね……」
「今日は特に蒸し暑い。でも、まだ少し風があるから」
風の道があるのか、時折思い出したように二人の周りに風が流れ込んでくる。
グランドの外では武蔵が原高校の学生と、その関係者の人らしい一団が三塁の木陰で応援のための飲み物やらを集配していた。同じクラスの何人かが、球場内に入っていくのを見たが、麻奈美は試合が始まっても球場から離れていくばかりだった。露店で菓子パンとミルクコーヒーを買って広い公園の中をしばらく歩いて木の下のベンチに腰を下ろした。
「あんな球場の中じゃゆっくり話も出来ないわ……人の目もあるし、人の口には戸はたてられないものね」
「応援しに来たんだろ……、試合見ないのか」
「試合は興味がないのと言うより、野球って知らないのよ、私……今日は、定信くんと、ゆっくり、話をしたかっただけ。野球の応援は口実よ」
定信は相手の思いを想像して探る言葉を探していた。それでも、なぜだろう、どうしたのだろうと思う気持ちがわだかまっていたのか、かたい表情を崩そうとしない。
麻奈美も、その後の言葉が見つからないまま、大きな歓声が津波のように押し寄せる球場の方へ視線を送った。
「野球部の伊達さんと仲が良いって、誰かが言ってけど、試合見なくて大丈夫か?」
桂木麻奈美が伊達をどう思っているのか知りたかった。
「伊達さんは尊敬出来る先輩……」
そこまで言って、意識的か無意識にか言葉を止めた。そして、すぐに言葉は続いた。
「そんなことより、定信くんの事を知りたいわ……でもね、その前に、少しだけ私の事を言わせてくれる」
「それだよ、一番気になってるんだ。昨日まで、シカトしてたのにどういうことかって……」
「別に、そうじゃないのよ。しばらく考えたかっただけ」
「考えて、どうだった?」
桂木麻奈美は定信義市のその言葉ににっこり笑った。嘘みたいに可愛い笑顔に見えた。もしかしたら可愛さ余った憎さだったのか、轟真悟の褒め言葉にプラスマイナスのように反発したのか、麻奈美を気持ちのどこかで懸命に否定している自分がいたのに、今さらながら気がついた。
もしかしたら何の先入観もなく麻奈美と会っていたら、きっと素直に可愛い子だと思っただろう。
もっと早く好きになっていたかもしれないと。
身体がくっ付きそうな近くに座っている麻奈美の息遣いと、仄かな花の香りが匂っていた。きっと、今日のために服を選び、帽子もいくつかある帽子の中から選んできたのだろう。香りすら定信義市のために選んできたに違いない。そんなことを考えると自然に身近に麻奈美を感じるのだった。定信義市が少なくとも五枚あるTシャツの中から一枚を選び出したように、3足あるスニーカーの中から一足を選び出したように……。朝念入りに歯磨きをして、ブランドのハンカチと一緒にミンティアをポケット忍ばしてきたように……。
「考えてもわからないから、考えるのを止めたわ。そのかわり私の事を聞いてもうことにしたのよ。簡単に言うと、私のこれまで生きてきた証を聞いてもらいたいの。そしたら私はあなたの心にとどまるかもしれない。このままじゃ、定信くんが私から離れていくばかりのような気がして」
「うそ、だろう……だって僕は桂木さんの事を何一つ知らないし、君は僕の事を何一つ知らない。まさに驚けない偶然だ。それに僕は仮免だろ……」
麻奈美は彼の最後の言葉に複雑な笑顔を返した。それには答えず、まっすぐ見た目は遠くから言葉を探し出す。
「知らないことは問題じゃないわ。知らないことは素晴らしいことだと思う。出来れば戻りたいくらい。何も期待もせず、ただ漠然とページをめくっていったあの頃に……」
「……」
「ヴェルレーヌってフランスの詩人……あなたは読んだことある?」
「いや、知らない」
「そう……ヴェルレーヌの世界を知らないあなたを私は羨ましく思う。でも、定信くんはもっと素晴らしい世界にいる。だから、私はあなたを知らないことに、時めいているの……これからあなたを知ることが出来ると思うと心が、身体が疼くのよ」
「へぇ、俺なんか、知っても、別に驚きもないし、感動もない。あるとすれば、馬鹿ばかしほどのドジだけさ」
定信は呟きに似た言葉を複雑な笑顔と一緒に吐き出していた。本当にそう思っていた。別に変化もない道のりだったし、あえて話すことも思いつかなかった。
麻奈美は定信を見て笑った。
「でも、あなたを知る前に、私の事を知ってほしい……あなたを知るのはまだ先でいいの、お正月を指折り数えている子供のように、楽しんでいたいから」
「君の事を知るのはいいけど、君が自分の事を話たからって、僕が自分の事を話すとは限らない。喋らないかも知れないよ」
「いいのよ、それはそれで……それでも定信くんはきっと話してくれるわ。私の知らない色んなことを、ありとあらゆることを」
「そんなこと無理だよ。ありとあらゆることを喋るには、きっと今まで生きてきた分の時間が必要だろ。それは十五年と二カ月。寝ている時間は必要ないからきっと十年はかかる。僕は話が苦手だから、もっと時間がかかるかも知れないよ」
「寝ているときに見た夢も話して……」
「夢の話しなんて、支離滅裂だから、上手く語れないと思うよ……」
「いいのよ、十年でも二十年でも聞いていたい。退屈きわまりない夢の話も定信くんが話してくれたら、あっという間に過ぎて行くわ」
ベンチは幾重にも重なった緑の葉が光を遮り、その隙間から水玉に反射した光のペクトルが煌めいていた。
幾分、日陰で汗をかくほどでもなく、風も感じないのに葉擦れの音がしていた。高木の上では自然の営みが気付かれぬうちに行われているのだろう。
球場からは、思い出したように絶唱と歓喜、スタンドを揺らすどよめきが聞こえていた。どよめきに絡まって麻奈美の声がかすれて聞こえた。
「私は小さいときは……、小学校……通えなかったくらいに……」
球場内では大歓声が起こっていた。大歓声は呟くように話した麻奈美の声を包み隠した。
麻奈美は何を話そうとしているのか……。
野球の経過も気になるし……。www
読んでくださって有難うございました。