3 花ある、君と
定信義市が楽しそうにランドセルを揺らしながら帰ってきたのは、月曜日の三時過ぎであった。
ランドセルを玄関に放り投げ、大事に連絡帳を持って桂木美鈴の家のベルを押した。
出てきたのは母親だった。
がっくり肩を落とした定信義市は連絡帳を渡して家から出ようとした時、微かな音がして小さな庭に面した、縁側のガラス戸の横に立っている桂木美鈴がいるのに気がついた。
白い服の上から水色の毛糸のカーディガンをはおっていた。
読書をしていたのか胸の前で一冊の本を大切そうに持っていた。
少し距離はあったが目と目が合った。
今度は笑わないと口をぎゅっと引き締めた。
はたして、そこには天使のように微笑む桂木美鈴の笑顔があった……。
(もしも、天使がいるとしたら、きっと、それは桂木美鈴にちがいない)
定信義市のぼっとした脳みそが、さらに霞みの中に溶けていく。
無意識の笑顔とともに右手を軽く上げて家から出て行った。
次の日。
定信義市は連絡帳を手にベルを押して表戸を開け中に入った。
ちらりと中庭を見ても縁側のガラス戸は冷たく閉められていた。
体から力が抜けていくのが分かった。
そんな日が三日ほど続いた。
義市にとっては長い日々だ。
四日目。
陽光が木々をかすめて庭にふりそそいでいた。
いつものようにベルを押して表戸から中に入って行った。
目は自然と庭に向く。
この三日間の失望が嘘のように、定信義市の目が歓喜の色に変わった。
縁側で日向ぼっこしながら、桂木美鈴が本を読んでいる姿があったからである。
「定信君……」
そう聞こえた。
定信義市が声の方を向いた。
そこには確かに桂木美鈴がいた。前よりにも増してニッコリ微笑んでいる。
「お母さんは買い物に出かけたから……こっちに来て話をしない」
心地よくひびく桂木美鈴の声は、どんな小鳥のさえずりよりも美しいと定信義市はひとりで思った。
「あの、連絡帳を……」
緊張が口の周りに集まったようで、物言いは情けないくらいぎこちない。
躊躇していた定信義市が庭の方に歩き出そうとしたとき、表戸から桂木美鈴の母が買い物かごを持って入ってきた。
「ごめんなさい、待ってくれてたの」
「いえ、今来たところなんです」
手に持っていた連絡帳を桂木美鈴の母に手渡して家から出ようとした時、母は買い物かごの中からチョコレートの箱を出して定信義市に差し出した。
「いつもありがとうね。よかったら、ジュースでも飲んでいって、美鈴も退屈しているから、話し相手になってくれたら喜ぶわよ」
知らぬ間にチョコレートは定信義市の手の中にあった。
「ありがとうございます。でも……」
「あの日から、定信くん、定信くんとうるさいのよ」
「おかあさん! やめてよ! もう」
縁側で桂木美鈴が恥ずかしそうに身悶えた。
「はい、はい」
母はそう言って家の中に入っていった。
どうしたものか、と思案していた定信義市は垣根の向こうを青柳三平が通りすぎるのを見て「今日は約束があるから……ばいばい」
と言って外に出た。
本当は話をしたかったが緊張のおかげで……心の準備ができていなかった。
桂木美鈴もニッコリ笑って手を振った。
定信義市はその笑顔を見て再度、胸が高鳴り、足はステップを踏んでいた。
嬉しい気持ちをそのまま、前を歩く青柳三平の背中をつついた。驚いて振り向いた三平はニヤつく定信義市を見て怪訝な表情を返した。
「なにをニヤついてる?」
「なんかついてる?」
まだ、義市の口元はしまりがない。
「ニヤつくな!」
三平の声に義市は口を真一文字に結んだ。
「桂木の家に連絡帳を持っていったんだ」
「それがそんなに楽しいのか?」
「へへ……こんな楽しい事はない。三平は桂木に会ったことないだろう」
「当然だ。学校に出てこないんだから、それに俺は女の顔はなるべく見ないようにしている」
「同じクラスなのに一度も顔を見たことがないのは変だ。一度行かないか」
「別に変だと思わん! 学校に来ないんだから仕方がない」
意固地に言い張る青柳三平は、それでも何となく桂木美鈴の家の方へ目をやった。
その先に薄むらさきの上着をはおった桂木美鈴が玄関脇に立っていた。
それを見た定信義市は驚いたように駆け足で近づいていった。
「どうしたの?」と声をかけた。
「連絡帳にこんなものが……」
桂木美鈴が見せたのは定信義市のテストの答案用紙だった。80点取っていた。
「定信君って頭いいのね」
「いや、みんないい点だったんだ。あそこにいる青柳なんか百点だよ」
少し離れて立っていた青柳三平を指差した。
「青柳くん……?」
「同じクラスだよ」
二人が話しをしているのを、青柳三平は離れたところでじっと見ていた。
初めて見る桂木美鈴だった。
女は見ないと言った言葉を、すっかり忘れたのか、目を閉じることなく瞼には何時までも一人の少女が映っていた。
桂木美鈴は青柳三平を見て小さく頭を下げた。
三平は頭をかいた。
定信義市は直ぐに走って戻ってきた。
暫く二人は黙って歩いた。
「ニヤ付いていた訳がわかった」
三平が口をきった。
「なにが?」
「まだ、ニヤついている」
「何が付いているって?」
「同じことを言うな」
義市は頭をかいた。
「今の娘が桂木さんだよ。可愛いだろう」
「俺は目が悪いからよく見えなかった」
「眼鏡をかけているから見えるんじゃなかったのか? それにじっと見てたろう……」
「馬鹿言え……俺は定信じゃない。一緒にするな!」
「あたりまえだ。君はおとこ、青柳三平だ」
「俺は青柳三平だ。女なんかと喋らない」
三平はそう言って胸を張った。
胸を張ったら必ずひねる一句。
「青柳の泥にしだるる潮干かな」
義一は頭の中で急行直下三段蹴りの返し技をくりだす。
「青柳の泥まみれなる干目かな……?」
首をひねる三平を尻目に義一は得意満面。
「公園でボール投げして遊ぼう!」
二人はゴムが弾けたように走っていった。
陽だまりは春の気配をはこんできても、肌寒い空気は二人の頬を赤く染めていた。
桂木美鈴は玄関に入ったところで立ち尽くしていた。
二人が元気よく駆けて行くのを見て、流れる涙で薄むらさきの袖を濡らしていた。
一人で本を読んでいる少女を見ると、何故か胸きゅんになりますね……。
読んでいただいてありがとうございました。