36 庭に、たちいで
小さな橋を渡り、さほど車も多くない道に出た。
「実は、花屋へ行こうと思ってるんだ」
定信義市がここで初めて理由を言った。意外な言葉に青柳三平は言葉を失いかけた。呆れたといっていい。
「花屋くらい、一人で行けばいいじゃないか」
一応、憤慨して見せた。
「三平は友情に厚い男だろう」
「花を買うためのお供が真の友情とは思えないけど」
「いや、いや、友情に嘘も真もないだろう……」
言いつつも、どこか思案気な定信義市に、それ以上の口出しはせず、次の言葉を待った。
「最近、新しくできた花屋があるんだ。そこのチラシの写真が、ディス、イズ、これ」
定信義市は大事そうに四つ折りにしたチラシをとり出して見せた。
「このチラシの写真の花を見てみろ」
三平は言われるままに、チラシに目を落とした。
「花は詳しくないから、まぁ、ディス、イズ、花だ。としか言えない」
定信義市は口元をほころばせ三平を睨んだが、気を取り直して三平の眼鏡の前にそのチラシを押しつけた。
「このうす紫の小さな花は忘れな草だ」
「忘れな草はわかった。それがどうした?」
三平はチラシを覗きこんで聞き返した。定信義市はしばし口を閉じた。
そして、意を決したように言った言葉と表情に、かすかな戸惑いがあった。
「桂木美鈴を、覚えてるだろう……小学5年の時に転校して行った子……その桂木の家の庭に咲いてた、忘れな草の花に似てるんだよ」
突然、桂木美鈴の名前が出てきて青柳三平は眼鏡の奥で目を剥いた。
「花の顔を見分けるとは……驚いたな。忘れな草殺人事件でも起こったら、さしずめ名探偵、定信義市の登場だ」
青柳のからかいに定信義市は苦い顔をしたが、その目は戸惑いつつも真摯な光をなくしていなかった。
「最初見た時、なぜか、そう思ったんだ。ひらめきというか、とりつかれたというか……」
「しかし、それは五年も昔の話だろう……」
「それはそうだけど……これが、不思議なんだ。見てみろ」
定信義市は花屋のチラシを、再び三平に突きつけた。
「別に普通の花にしか見えないけど……まぁ、俺は桂木の家の忘れな草を知らないから、思い出さないのは当たり前だ」
青柳三平は桂木美鈴の家の中に一度も入ったことは無かった。外から覗き見たくらいでは、庭の片隅に忘れな草が咲いていることなど、気がつかなかったということだ。
「ここを見てみろ。分かりにくいけど小さな金色の折鶴がぶら下がっているように見えないか」
チラシの一部を定信義市は指差した。眼鏡をはずして三平はそれを見ていたが暫くして首を振った。
「見えると言えば見える、そうじゃないといえばそうじゃない。あると思えばあるし、ないと思えばない。金色と言えばそうだし、ばば色と言えばそうだ」
「あの頃、桂木は折り鶴を折っていたんだ。俺は金の折り鶴をもらったことがあった……桂木が自分で折った金の折り鶴を括りつけたのかも知れない」
「さすが名探偵、定信義市だ。見事な推理だが、二つ大きな問題がある」
「もんだい?」
「忘れな草は、それほど珍しい花ではないのが一つ、もう一つは金色の折り鶴を折るのは、桂木だけではないということだ。俺だって折る」
「……」
そこで、二人の会話も止まって、足も動きを止めた。
目的の花屋が、そこにあったからだ。
花屋の横の電柱の上にからすが一羽止まっていた。どうやらカラスにも住処があるようだ。
オープンとあって開店祝いの花が店先を飾っていた。小さいながら清楚な雰囲気を感じさせる可愛い店だった。
入口の上にflower shop 勿忘草とレインボウカラーのネオンが人目をひいた。
定信義市が店を怪しげに眺めているので、店の中から女性の若い店員が出てきて声をかけた。
「中へどうぞ。綺麗な花がいっぱいですよ」
にこやかな笑顔が可愛い娘だった。定信義市は照れたように青柳三平に視線を流した。
「忘れな草の花……置いてますか?」
「ごめんなさい。鉢花の忘れな草が一つあったんですけど、さっき小さな女の子が買っていったばかりです」
店員は申し訳なさそうに謝った。
その言葉と電柱のカラスが飛び立ったのは、ほぼ同時だった。
あの日も黒いカラスが白い雲を背景にゆっくり飛んでいた。
定信義市は金色の折り鶴とともに、はっきり覚えていた。
二人は再び全速力で歩いていた。後には小さな竜巻さながらに風が渦を巻いて、並木の枝を揺らしていた。
「勿忘草という名前の花屋で、忘れな草を売っているのは普通だろ。それに、忘れな草を小さな女の子が買っていくのも驚かないよ」
「でも……あの花の写真は、桂木の庭の忘れな草に似てるんだけどな……白い石に囲まれて」
「何度も言うけど、俺は桂木の庭を知らないから、答えようがない」
一抹の寂しさを漂わせて三平は言った。
春だというのに、早足の定信義市のかしげた首筋から汗がとぶ。
それに反して、涼しげな三平は言った。
「そういえば、桂木の金の折り鶴のことだけど?」
「折り鶴?」
「定信は、その折り鶴を持ってないんじゃないかと思ってさ……」
「馬鹿言え。ちゃんと持ってるさ。どこかにしまってあるから、探せば見つかる」
落としたと思っていない定信義市は家のどこかにあると思っていた。まさか青柳三平が拾って持っているなど知らない。
定信義市の家の前だった。
彼が落とした金の折り鶴を拾った三平は家のベルを押して、それを返そうとしたが、由香里に強引に引っ張られ返せなかった。何度も言う機会を待っていたが、それもなく、以後、言いそびれたままになっていた。
「あれから五年、さらに五年が過ぎたら、折り鶴に込められた桂木の願いが定信に届くわけだ」
「金の折鶴のはなしか? そんなこと、いつまでも引きずってないよ」
定信義市の言葉にも表情を変えなかった三平だったが、右手で眼鏡を持ち上げながら「奇跡はあるとおもうか?」とポツリと言った。
「奇跡……? あると思えばあるし、ないと思えばない。実は奇跡のようで奇術かも知れない。夜汽車の汽笛か、タヌキの金的かも知れん、それは金色かも知れないし、ばば色かも知れん」
定信義市の言葉に、笑いをこらえて三平は言った。
「奇跡はあるさ……」
三平が空を見て何かを念じた。すると、かすかな雨粒が落ちてきた。
「ほら雨が降ってきたろう。俺が雨よ、降れと念じたからだ。これが奇跡と言わずに何と呼ぶ」
たしかに五月の空から小雨が落ちてきた。
三平が両手を広げてみせ胸を張った。胸を張ったらひねる一句。
「五月雨の、空吹き落せ、大井川」
「おい、芭蕉拳は空を落とせるって、か……そりゃ一大事だ」
定信義市は頭を両手で抱えこんだ。
「それを杞憂というらしい」
古代中国の杞という国で空が落ちてくると憂いた人の故事による。大げさに心配しすぎる例え話だ。
「それなら俺が一休拳でその空を支えて見せる!」
定信義市は雨空に両の手を突き出した。
はじかれた雨粒が四散して雨はすぐに止んだ。
「さだのぶぅ!」
轟真悟の大声がラーメンの匂いごと定信義市にぶち当たって我にかえった。
「この花屋がぁ……あの、桂木麻奈美の家だぜぇぇ」
轟真悟の真意がこの一言にあることを、この時、定信義市は悟ったのだった。
その轟真悟の真意とはなにか?
それにしても、定信が一年前に桂木美鈴を思い出した花屋に今、桂木麻奈美が住んでいるとは、真実は小説よりも奇なりですな……?!
私事ですが、最近、暇があって、そこに花屋があれば、足がそっちに向いていきます。特にモンステラという観葉植物がお気に入りです。
読んでくれてありがとうございました。