34 胸、満ちくれば
野球部の榎田省吾は定信義市と同じクラスだった。ひょろりとした茄子のような身体に面長な顔を持っていた。やや垂れた細い目が憎めない。
甲子園の予選が近づいているせいか、そんな顔にもかかわらず日に焼けて精悍さを宿していた。ただ宿しているだけで授業中は驚くほどよく眠った。
そんな榎田が放課後練習に行く時、たまたま陸上部の定信義一と一緒になった。
「野球部はいつ試合なんだ」
並んで歩きながら定信義市が聞いた。
「明日の土曜日、大豪高校と東塔学園の試合があって、その勝ったほうと、たしか、1週間後くらいに試合が……」
榎田省吾のすこし間延びした声が切れ切れに聞こえてくる。
「東塔学園? あの木枯と桑原のいる学校か」
「まあ、優勝候補の一番だ。大豪高校は大したことはないから、東塔学園と二回戦をやることになるだろうな」
「東塔か……」
「東塔と二回戦で当たるんだから……最悪だ」
榎田は肩を落とした。
その榎田が、そもそも武蔵が原高校に進もうと思ったのが伊達武蔵の存在だった。
いつか、定信義市にその経緯を熱く語ったものだ。
「去年の準決勝は東塔学園対武蔵が原高校だった。その試合をまだ中学生だった俺は中学の野球部全員で見に行ったんだ。東塔の二年生エースの桑原が絶好調で武蔵が原高校を相手にヒット一本も許さない。伊達先輩にはまともに勝負しないし、結局、東塔が2対0でリードしたまま試合は9回まで進んでいった。その時は、俺も仲間も桑原のいる東塔学園を応援していたんだ。9回は桑原から予定通り木枯にピッチャがチェンジした。この木枯が桑原以上の速い球を投げる。簡単にツーアウトを取って油断したのか、それとも次のバッターの伊達先輩を意識したのか、その前のバッターを四球で出してしまった。そして9回表、ツーアウト一塁で伊達先輩との勝負。もちろん東塔ベンチからは桑原のときと同じように、まともに勝負はするなと指示が出たはずが……木枯の表情は余裕しゃくしゃくでうすら笑いさえ浮かべていた。ホームランを打たれたら同点の状況で、木枯は真っ向勝負に行った。その自信がどこからきているのかわからないが、東塔学園を応援していた俺は頼もしく思ったものさ。木枯が伊達先輩に第一球を投げるまでは……」
もちろん定信義市は去年の高校野球の予選のことなんか知りはしないし、武蔵が原高校に来るまで伊達武蔵のことも知らなかった。とうぜん野球部の榎田ほど詳しくはないし、興味もなかったにもかかわらず榎田の話しっぷりに引き込まれたのか身を乗り出した。
「伊達先輩のバットが一閃……」
定信義一の合いの手を軽くかわして、榎田の熱弁は続く。
「木枯、初球の魔人球、地を切り裂く剛速球をまるでピンポン玉のようにバックスクリーンはるか上を越え、青天の中に消えた大ホームランをかっ飛ばしたから驚いた」
「まさに、太陽に向かって打て!」
「同点になっても結局9回の裏に東塔が一点を取って負けたけど……その時の伊達先輩が格好よくて武蔵が原高校を選んで野球部に入ったんだ」
榎田の長い話が終わってほっとした定信義市は伊達武蔵の知られざる一面に接して、少なからず胸を締め付けられた。
「知らなかったな、伊達先輩は……」
すごいと言おうとしたのだが、その一言だけで済まない何かを感じていた。それは、伊達武蔵の身体から噴出していた傑出したパワーの魔力を見たからかも知れない。
午前中の雨模様も、どんよりとした曇が空を覆ってはいるが雨はやんでいた。ところどころ切れた雲間から光が差し込む。
轟真悟から近くのコンビニにいるから出てこいよ、と電話があったのは土曜日の昼過ぎだった。
定信義一は散歩に行くと言って自転車で家を出た。
電話で用件を言えばいいのに、出てこいとはいったい何の用だろう。おそらく、桂木麻奈美のことじゃないかと憂鬱な気持ちをぶら下げて住宅街をしばらく自転車で走った。
前方に信号が見えてきた。
轟真悟は見慣れたコンビニの看板近くに、買ったばかりの21段変速クロスバイクを止めていた。大きな体にスリムな自転車は似合わないと思ったが、レモンイエローの真新しい車体はやはり超かっこいい。
7万円の価格も高校生の定信義市にはしびれた。
お年玉と今まで貯めていた小銭、父親に少し援助してもらって買ったものらしい。
轟真悟は自転車を磨きながらコンビニの前で待っていた。
定信義一はお尻を少しあげペダルを踏み込む足に力を入れた。
中学入学の時の買ってもらった定信の自転車はところどころ錆が浮き、ペダルを踏み込むたびに小さくではあるがカシャガシャと異音がする。最近はそれが大きくなってきたように感じていた。轟真悟が顔をあげたので、定信義市も片手をあげてそのまま額の汗を拭いた。
「よぉっ!」
轟真悟が声を上げた。定信義一は夏前とはいえ、むっとした熱気と湿気に身体中を覆われていた。
「なに用じゃ?……」
定信義市は鷹揚に言った。
「この蒸し暑さはぁさぁ、自転車に乗ってサイクリングとシャレなきゃやってられん」
「このくそ暑いのにサイクリングに誘ってくれるとは、うれしい限り」
「なぁに、昔から言うじゃねえかぁ。くそ暑い夏だからこそサイクリングだぁ」
「そんな言葉しらねぇ……俺が知ってるのは……くそ暑い夏はアイスクリンだぁ」
「付き合ってくれたらぁ、あとで奢ってやるよぉ」
轟真悟がハンドルに手をおいた。そのハンドルに赤い蛇のようなものがぐるぐる巻いていた。
「なんだ? そのハンドルで赤くとぐろを巻いてる奴は?」
「ロックだよぉ。自転車泥棒が盗む気をなくすといわれてる代物さぁ」
「へぇ、高価な自転車もいろいろ大変だな……」
「値打ちのあるものにはさぁ、それだけの責任が発生するものなんだぁなぁ、これが……」
そう言いながら大柄に似合わず軽々と自転車をこぎ出した。
「ゆっくり行ってくれよ? その自転車について行くのは大変なんだから」
「まぁまぁ……ゆっくりついて来いよぉ」
コンビニから道路に出ようとした時、一台のバスが通り過ぎて行った。
バスには東塔学園高等学校野球部と文字があった。
「東塔学園の野球部のバスだぁ」
轟真悟はバスを見送りながら感嘆の声をあげた。
「東塔学園の野球部。桑原と木枯か」
「無敵艦隊さぁ、あそこに勝つのは、あの二人がいる限り無理だってぇ」
「たしか、うちの高校、東塔と当たるんだろ……そんなこと同じクラスの野球部の榎田が言ってた」
「正確には、東塔学園と大豪高校の勝者だぁ。この時間だから試合は終わったみたいだなぁ。まぁ、そんなことは俺には関係ねぇ」
轟真悟は言い終わらないうちに自転車を踏み込んだ。
「そうとも言えないよ」
走り出そうとした轟真悟の足が止まった。
「いつ、どこで、誰がぁ、野球部に入ったんだぁ?」
「そういうことじゃなくて、野球部の伊達さんと桂木麻奈美が仲良く話してたのを見てしまったんだ」
言ってはならない定信義市の秘密だった。
放課後テニスコートの隅で、人から隠れるように伊達武蔵と桂木麻奈美が話をしているのを見ていたのだ。
桂木麻奈美の名前が出たのと定信義市のニタニタ顔を見て、轟真悟は顔色が変わった。
「伊達と?……ウソだろ。あんな野球しか頭にない奴がぁ……あんな可愛い子をたぶらかそうとしてるのかぁ」
「まあ、話をしてただけだから……気にしない。気にしない」
「なにが、気にしないだぁ。このタイミングで、いやなことを聞かせてくれるよぉ」
轟真悟の21段変速クロスバイクは定信義市を置いてきぼりにして、バンクを走る選手のように疾風となって、みるみる見えなくなった。
定信義市は中腰になってガシャガシャ音を響かせて、仕方なく轟真悟の後を追った。
その頃、武蔵が原高校のグランドでは野球部員が監督の周りに集まっていた。
いよいよ対戦相手が東塔学園と決まった、と選手一同に緊張感が走った。
選手が集まったのを確認すると監督は眼鏡を指で押えながらゆっくり言った
「対戦相手が決まった! 大豪高校だ」
その瞬間、信じられないとばかり、選手の間にどよめきが起こった。
それは、すぐに歓喜の声にかわっていった。相手が強豪の東塔学園ではなく無名の大豪高校になったのだから、喜ばないはずはない。
ただ、伊達武蔵だけは顔色を変えず、冷静な目には燃える炎が灯った。
轟真悟は定信義市を誘ってどこへ行こうとしているのか?
相変わらず、定信義市を無視し続ける桂木麻奈美。
そして、伊達武蔵の武蔵が原高校野球部の二回戦の対戦相手が決定。
まさか、無名の大豪高校。
この経緯に興味ある方は甲子園発、最後の夏を読んで下さい。
と、宣伝も終わったところで、方々、読んでくださってありがとうございました。