33 わが、うれひあり
桂木麻奈美から告白された一件があっても、定信義市の周辺はなんら変化なく過ぎていった。轟真吾の落ち込み具合が気になるくらいだ。
「こんなことになるんなら、さだのぶぅに東条先生を譲るんじゃなかったぁ」
轟真悟、連日のため息だ。
部活にも力が入らない。陸上大会も近いに関わらず練習もサボりがちだった。
春が過ぎ、梅雨空がどんより轟真吾の心を写す様に曇っていた。
高校の運動場には野球部が一角を陣取り、その横でサッカー部がボールを蹴っていた。テニス部は野球部の横に高いフェンスに囲まれたコートを持っていた。陸上部はその間隙を縫って運動場から中庭を利用して練習をする。
定信義市は元気のない轟真吾を励ましながらテニスコートの横を走りぬけようとした時、ひときわ甲高い声が聞こえてきた。
その声とともに浅黄色のユニフォームを着た桂木麻奈美が左右に動く、そのたびに長く伸びた足が躍動する。見事なフォームはひときわ目を惹いた。
定信義市は後ろを走る轟真吾に合図をした。轟真吾はその思わせぶりな態度に何事かと目を左右に振った。
念ずれば通ず。
その目は当然のようにテニスコートの桂木麻奈美を捉えていた。
向こうでも二人の姿を見つけたのか大きく手を振っているのが見えた。続けて声が聞こえた。
「轟くーん!」
飛び込んできたのは轟仰天の言葉であった。
「えぇ! お、おれぇ……?」
轟真悟は定信義市を見た。さっきまでの落ち込みようは嘘のように顔を上気させて、ふらふらっとテニスコートのフェンスにしがみついた。その前には桂木麻奈美が天使のように微笑みをたたえて立っていた。
「ごめん、さっきボールがフェンスの外にとびだしちゃって、探しても見つからないの」
だから探してくれる、とは言わなかった。それを言わなくても、そうしてくれるだろうとわかっているからだ。
「お安いごようだぁ」顔面笑顔で引き受けた。「で、どの辺りを探せば……」
「バックネットの後ろに転がっていったわ。でも練習の邪魔をしちゃ悪いからいいわ」
「練習……平気、平気、なあ、さだのぶぅ」
振り向いては見たが、いるはずの定信義市の姿はそこにはなかった。テニスコートの角を曲がり中庭の方へ走っていったに違いない。
「さだのぶぅは生真面目だから、走っていっちまったかぁ。あのやろう、東条先生の音楽室には立ち止まって覗き込むくせに、なに照れてやがるんだぁ」
大きな独り言である。その言葉で桂木麻奈美の笑顔が半分消えたのを轟真悟は気がつかない。
「探してやるから、ちょっと待ってろ」
轟真吾はバックネットの裏に歩いていくと雑草の生えた場所などに目をやった。その先には野球部の連中が素振りを繰り返す場所があって、危険防止のため、そこには立ち入ることは出来ない。その場所に二本のバットを自在に操りひときわ鋭い素振りの音をさせている男がいた。雰囲気は覇気天を突く鋭さを持ち、反面、目にはあどけなさを残していても、そのガタイは半端ではない。この男の存在こそが野球部の存在であると言われるほど選手であった。
小学校の時には世界選抜の四番を打ちながら、野球部の名門高校の誘いを蹴って、これまで甲子園には無縁の高校に進んだのには簡単な理由があった。
単純明快に武蔵が原高校という校名だった。武蔵が原こそ、俺の進む道だと迷うことなく言いきった。
その男こそ、誰あろう……現代に蘇りし武蔵。二天一流を今に伝える伊達武蔵だった。
「おい、何してる。危ないからそこを離れろ!」
伊達武蔵は一本のバットを立て、もう一本を水平にかまえ轟真吾を指した。一年の轟真吾でも三年生の伊達武蔵がどれほどの男か知っていた。
「テニスボールがそっちに転がったみたいなんでぇ」
轟真吾は頭を低くして、少しその場を離れた。
「お前、陸上部だろ。陸上部が何でテニスボールを捜してるんだ。テニス部の連中に頼まれたのか?」
「いや、それは……」
「まあ、いい。練習の邪魔だから、さっさと離れろ」
その言葉が聞こえるや否や、二本のバットがまるで一本のバットのように一閃して、測定不可能な爆風が轟真吾の身体を三メートルも後方に吹き飛ばしていた。
伊達武蔵の秘打、二天一流打法である。
「すげえぇ、さすが、伊達先輩のスイングは超一級だぁ」
轟真吾の声が聞こえたのか、伊達武蔵はニヤリと笑った。
「バットは誰でも振れる。バットの芯にボールを当てることができるか、それがすべてだ……」
伊達はその場にかがんで腕を伸ばした。その手にはテニスボールが握られていた。
「可愛い子を、長く待たしてはいかん」
ボールを投げてよこした。
轟真吾は頭をかき二度三度と礼をして、テニスコートのほうに戻っていった。
テニスコートでは小気味いい音が響き、ラリーが続いていた。
桂木麻奈美はその中でもひときわ輝いていた。それを眩しそうに眺める轟真吾の顔は夢幻の如くであった。
中庭の木々が緑を揺らしていた。
音楽室からピアノの音は聞こえていない。
中庭には数人の陸上部の連中が汗を拭きながら走っていた。その中に定信義市もいた。
定信義市が音楽室の前を通り過ぎようとした時、大きな音が音楽室から聞こえてきた。
大きな物が落ちた音みたいだった。
定信義市は怪訝な表情で音楽室を眺めながら走り過ぎていった。
中庭を通り過ぎた。
茶色の土の運動場が見え、視界が大きく広がった。
四百メートルのコースがある広さでも、各クラブが工夫をしながら使用していた。
定信義市が運動場のコースに入ろうとしたとき東条先生の呼ぶ声がした。
「定信くん」
「はい」
定信義市の後ろを振り返ると東条先生がいた。
「クラブの練習なの?」
定信義市は見たらわかるのに……なぜ今日に限って、そう思った。それとも、何か音楽でへまでもしたのか一瞬、不安感が頭をよぎった。
「大会が近いので」
「頑張るわね」
「クラブぐらい頑張らないと」
「音楽ももう少し頑張って欲しいわ。今度、定信くんには居残って貰おうかな」
「えっ! まじですか?」
「それが嫌だったら、頑張りなさいね」
定信義市はそのとき、なぜか東条先生の息つかいが普通ではないのに気がついた。いつもは冷静に話す東条先生なのにまるで四百メートルを全力で走ってきた選手のようだ。
それに誰かを気にしているようにも思えた。
そのまま、東条先生は音楽室のほうには行かず職員室の方へ歩いていった。
定信義市は再び走り出した。
サッカー部の脇を抜け、野球部が練習している場所はボールに注意しつつ遠慮がちに走った。するとテニスコートの横で轟真吾と桂木麻奈美が談笑しているのが見えた。
ボールを拾った轟真吾とテニスコートから出てきた桂木麻奈美だった。
そんな経緯は知らない定信義市は茫洋とした目でそれを眺めていた。
恋人宣言をしたにも関わらずそれ以後、定信義市を避けるように振舞う桂木麻奈美に対して面白く思わない感情だった。
元々、轟真吾が一人ではしゃいでいただけで定信義市は興味がなかったはずである。それでも衆人の中で堂々と恋人宣言した言葉は嘘だというのか……言ってみたものの、よくよく考えれば私のタイプではなかったと後悔したとでも言うのだろうか。
それでも、轟真吾と桂木麻奈美が仲良くなればいいじゃないか。
無理にそう思った。……思ったものの、桂木麻奈美におこる腹立たしさが治まらず定信義市を悩ませた。その感情の出所がわからないまま、二人が仲良く話す情景はさらに定信義市を貶める。
定信義市は情けない思いに一応、反発を試みる。
恋人だ、と言っておいて無視しつづける桂木麻奈美の態度こそが誠実さに欠けているのだと……。
定信義市がゆっくり近づいてくるのに気がつくと、桂木麻奈美は轟真吾に礼を言ってテニスコートに走って戻った。
轟真悟は定信義市を待つことなく、俄然元気に走り出した。攻守所を変えるとは、よく言ったものである。
女心はなんとやら……。桂木麻奈美に翻弄される定信と轟。
ここで突然登場した伊達武蔵。
次回、甲子園発、最後の夏のラストが明らかになります。
読んでくださってありがとうございます。