31 とゞまり、たまへ
次の日、定信義市が放課後、珍しくクラブの練習がなく校門を出たところで轟真吾が待っていた。
「さだのぶぅ、おまえに東条先生の胸は譲ることにする」
轟真吾は定信義市と並んで歩きながら、ぼそぼそと口走った。
「胸をゆずるって、意味不明で理解不能」
「俺には、もう、あの子しか見えない。あの転校生しか……さだのぶぅ! 今日は見ただろうなぁ?」
轟真吾の声は花の蜜をいっぱい飲んだ、アザラシのようだった。
「いや、見てないし、転校生があった事も忘れてた」
正直な言葉だった。気にはなったが、そのことをすっかり忘れてしまっていたのだ。
「どっから見ても可愛いい娘なんだよ。俺はほれたね。清楚というかぁ、はかなげと言うかぁ、穢れを知らない純情な乙女というかぁぁ……」
オーバーに身悶える轟真吾を見て、定信義市はからかいたくなった。
「よく言うよ。轟は胸さえ大きけりゃ、誰でも良かったんじゃなかったのか?」
轟真吾は反発するかのように動きを止めた。
「馬鹿をいえ、こう見えても乙女ちっくなんだぜぇ。ただ、胸はでかい方がいいのは間違いない」
「音楽の東条先生、みたいにか……」
「確かにぃ……あの胸に一度でいいからぁ、抱かれてみたいって」
「轟の顔は、贔屓目に見ても、純情な乙女を語る顔じゃない」
「てやんでぃ……まぁ、いいから、一度見てみたらわかる。超、面食いの俺が言ってんだからぁ、間違いねぇ」
「そこまで言うなら、百聞は一見にしかず、だ」
定信義市はそう言って、あたりを見渡した。
学校の帰り道。二人で寄り道して転校生が来るのを待つことにした。
コンビニで買った食料を、川の土手に座って二人で食べていた。
「この道を通るのか?」
しばらく経って、心配そうに定信義市は聞いた。
「俺を信用しろってぇ」
土手に、うつぶせに寝転んでいた轟真吾は自信満々に言った。
「北海道の転校生って、ほんとうか?」
「うそ、言ってどうすんだぁ……」
北海道の転校生……その時、定信義市の瞼に浮かんだのは、懐かしい桂木美鈴の姿だった。
そんなこととは露知らず、轟真吾の声は続いていた。
「肌は雪のように白く、シクラメンのように純粋で。カトレアの花に似た可憐さで……」
轟真吾は知っているボキャブラリを全て吐き出していたが、定信義市の頭の中には轟真吾の声は入ってこなかった。
その声は左の耳から右の耳へ通りぬけていった。
定信義市の瞼の奥には小学五年生のままの桂木美鈴が、忘れな草の花を手にして立っていたからだ。
小学五年生の桂木美鈴の手は小さく、定信義市は自分の大きくなった手を眺めた。
(俺は高校生なったが、桂木美鈴は、あの時のままの小学五年生なんだ……)
何か寂しさを感じながら、明るい日差しが桂木美鈴を照らす。
ひとことも発せず、ただ、そこに立っているだけだった。
「色で言うなら純白、花でたとえるなら、すずらんの花、まるで白い光を纏って天使が舞い降りたように、どこまでも続く白樺林……」
轟真吾の話はまだ続いていたが、定信義市は夢幻の如くなり。
突然、彼の耳は轟真吾の大きな声を捉えた。
「定信! 来たぞ」
その声に定信義市は上半身を動かした。
「あれか……」
さらに半身起こして轟真吾の目が示す方向を見た。
その視線の先から制服のブレザーを着た女学生が一人で歩いてくる。
傾きかけた太陽の残り少ない光を黒髪に反射させて、定信義市の見ている前方を通っていく。
「あぁ……!」
定信義市が驚きの声を出した。
「ほら、驚くほど可愛いだろ、可憐だろ。それでもって切なげな、あのたたずまいは俺の胸を締め付けてくるんだ」
轟真吾は小声でつぶやいていた。
定信義市は一声発して声を飲み込んだ。
そこを通っているのは、想像の世界の中にいた桂木美鈴に、どこか似ていたからだ。
定信義市は立ち上がろうとした。
その足に轟真吾の大きな手が伸びてきた。
「抜け駆けは良くない。俺の白い天使は自ら守らねば……」
その手は驚くほどの力だった。
定信義市の足首は轟真吾に捕まえられて動かない。
ましてや、喉が詰まって声も出ない。
呆然とする定信義市の前を、微笑みを忘れてきたかのように行過ぎる転校生。
「かつらぎ……」
咄嗟に出た、定信義市のかすれた声だった。
それに反応することなく、そのまま転校生の歩みは止まらなかった。
夕日が赤く西の空を染めている。赤い光は低く垂れ込めた雲を掠めていた。
身悶える轟真吾の手と、その手に捕まえられて動けない定信義市は去ってゆく転校生の後ろ姿を、それぞれ違う思いで見送っていた。
「さだのぶ、お前、今、かつらぎ、って言わなかったか?」
轟真吾が聞いた。
「言ったけど……」
「かつらぎ、ってなんだよ?」
その質問には、少し考えてから答えた。
「北海道に転校した、かつらぎって言う幼馴染に似てたんだよ」
「馬鹿言うなよ。北海道って広いんだぜぇ。それにあんな純情可憐な乙女に似てるなんて、へそが茶を沸かすぜぇ」
轟真吾は腹を抱えて豪快に笑った。
「いや、そっくりだった……」
定信義市も笑いながらも、内心、その驚きは荒海の波のように収まらなかった。
「何がそっくりだ。言うのは簡単だぁ。どうせ、カバとオランウータンとクロマニヨン人とムンクの叫びを、混ぜこぜにして黒い壁に叩きつけたような顔なんだろうがぁ……」
「アンビリーバブル!」
定信義市は、なおもしゃべり続ける轟真吾から目をそらした。
「それで、なんて名前なんだ?……転校生……」
答えに窮した轟真吾は自信なげに首を傾げて、小さく吐息をだした。
「たしか、たぶん、きっと……」
「へぇ、知らないんだ……」
「知らないんじゃないんだ。思い出せないだけだぁ」
「思い出せよ」
「かつらぎ、じゃない、と思うけど、たしか、たぶん、きっと……」
「かつらぎ、かも知れないじゃないか」
「さっき,呼んでも振り返らなかったろうぉ……」
「聞こえなかっただけだ」
その声が消えた時、二人の目も、身体も同時に固まっていた。
行過ぎていったはずの転校生が、揺れる逆光の中、こっちを向いて立ち止まっていたからである。
「かつらぎ、かもな?」
轟真吾の顔が梅雨空のように、みるみる曇った。
定信義市の前に現れた転校生は、かつらぎの声で立ち止まった……。
新たな展開が始まる予感に、頭が麻痺してます。
読んでくれて有難うございました。