30 われをし、君の
小雨の降る夕方だった。
下校途中の轟真吾が雨の中を傘も差さず、大声を張り上げ興奮気味に近づいてくる。
「定信じゃねぇかぁ」
定信義市は立ち止まって振り返り、轟真吾が来るのを待った。
「おーい、知ってるか? 今日よぉ、1年2組に女子の転校生が来たんだ。可愛い子だったぜぇ」
大きな声は定信義市の耳元近くに来ても変わらなかった。耳を押さえながら定信義市が答えた。
「クラスの誰かが言ってたけど、顔までは見てない……3組のお前が何で知ってる?」
轟真吾の顔が紅潮していたから、よほど可愛い子に違いないと、定信義市は思った。
「3組の男子は皆知ってるぜぇ。一日中、その話で盛り上がっていたからなぁ」
轟真吾が一人で、大いに盛り上げているのが、定信義市には手にとるようにわかった。
「1組は真面目な連中が多いからなぁ。なんなら、今度紹介してやるよぉ」
「紹介するって、そんなに親しくなったのか?」
横に並んでいた轟真吾が、不信感をあらわにした定信義市の正面に回って胸を張った。
「もちろん、一言も……喋っていない」
意味なく自信満々だ。
「胸を張って言うことか……」
「お前は、知らんからそんなことを言うのだぁ。廊下からチラッと見たとき、その子は俺の方を見てニッコリ笑ったんだ。これが親しさの表現と言わず、なんと言うのだぁ」
轟真吾はしばらく一人で熱く語り続けていた。
「おい、轟……ここ曲がるんだろ?」
定信義市が行きすぎようとしていた轟真吾に声をかけた。
「確かに……」
彼は口を閉じ、促されて四つ角を左に曲がっていった。そのまま、何も言わずに行けばよかった。
最後に放った一言が定信義市の頭を麻痺させた。
「北の国からの転校生」
それに反応した定信義市は即座に聞いた。
「北の国って?」
「ジャガイモが上手い、北海道さぁ」
轟真吾は雨がきつくなってきたので、駆け足でそこを走り去った。
定信義市も雨宿りしようと酒屋の軒先に立った。そこで轟真吾の最後の言葉を反復していた。
北海道からの転校生……?
彼の足元に、はじけた雨がかかる。
道路に叩きつける雨脚は弱まる気配がなかった。それどころか、さらに激しく横殴りの雨が道路を流れる。
北海道という言葉に一瞬、気をとられた定信義市だったが、さすがに観念して近くにあったダンボールの切れ端を手にとり、頭に乗せて走り出そうとしていた。
その定信義市の前を、傘を揺らして青い服の女性が一人通り過ぎて行った。
それを追う様に動く定信義市の視線の間、彼の手からダンボールが落ちて、それを拾おうとして立ち止まった。その時、雨音とともに女性の声が聞こえた。
「定信君……じゃない」
青い服を着た東条紗枝だった。
「あっ、東条先生」
「雨にぬれて風邪ひくわよ。私の傘に入りなさい」
「でも、いいです。これがありますから、走って帰ります」
定信義市はダンボールを軽く上げて見せた。
「いいから、先生のマンションは直ぐそこだから、それから、先生の傘を持って行きなさい」
「これくらいの雨なんともないです」
定信義市が再び走り出そうとした時、東条紗枝が身体を折り、突然、お腹を押さえて苦しげな表情を浮かべた。
定信義市は、その表情をみて東条紗枝の持っていた傘を自分で持った。
「……先生、大丈夫ですか」そう言ってから、なんとなく辺りを見た。
別に疚しくはないが、轟真吾にこんなところを見られたら、学校で何を言われるかも知れないと、あせった。
「大丈夫よ……」
東条紗枝は定信義市が差し出す傘の中にいた。
彼の肩は傘から半分はみ出て濡れていた。
「私はいいから、定信クンが傘に入りなさい。濡れるでしょう」
それでも、定信義市は東条紗枝が濡れないように傘を持っていた。もう、その時は、傘を返して帰ることは出来なくなっていたからだ。
「マンションの近くまで、行きます」
その時は、激しい雨も小雨に変わっていた。最近は異常気象のせいか、こういう雨が多い。
定信義市が持つ傘は小雨の中をぎこちなく進んで行く。
東条紗枝の言葉だけが耳に響き、定信義市は、それに頷くだけで、二人の交差する足音を聞いていた。
「その道を右に曲がって、坂道を上った、ひだり」
彼女が指差した先には、うす緑の高層マンションが聳え立っていた。
「すっごい、マンションですね」
定信義市は、建物を見て感嘆の声をあげた。
「先生って、そんなに高給取りなんですか?」
「ばかね、そんな訳ないでしょう。無理してるのよ」
東条紗枝は独り言のように呟いてから、定信義市の顔をみた。
「無理してるようには……見えないです」
「見せないようにしてるから……見えないのね。それが無理してる証拠かしら」
坂道もほぼ半ばまで来たとき、東条紗枝は明るい表情を見せた。その時は、すでに雨もほとんど降っていなかったからだ。
「有難う! 定信義一……もう大丈夫よ」
定信義市は呼び捨てにされて、なぜか一瞬、心臓が止まりそうになり、胸が二度、三度はじけた。
「じゃ、雨も止んだみたいだから、このまま帰ります」
傘を東条紗枝に渡して、頭を下げて、今来た道を降りていった。
背中に何かを感じながら、正直ではない心が、後ろを振り返えさせなかった。
坂道の下まで降りた時、そこで初めて定信義市は後ろを見た。
もう居ないと思っていた青い服の東条紗枝が、一歩も動かず立ち止まったまま、定信義市を見送っていた。
その時、そこに、なぜ、東条紗枝は動かずに立ち止まっていたのだろうか。
考える間もなく定信義市は再び、今度は走りながら東条紗枝に駆け寄って行った。
「どうしたの……?」
彼女は怪訝な表情をした。
「いや……先生が動かないから……何かあったのかなと……」
「ほっ……有難う。優しいのね」
定信義市は東条紗枝が時折見せる、切ない表情が何を意味しているかを理解するには、まだ少々早すぎたのかも知れない。
「そうだ! 先生が作った曲があるのよ。よかったら……聞いてくれない」
その言葉は空気のように漂った。
知らずに定信義市は大きく息を吸って、ただ、かしこまっていた。
「時間あるの……?」
「約束はあまりしないほうだから」
「そう。じゃ、いらっしゃい。先生のピアノを聞いてよ。あなたにも関係がある曲よ」
東条紗枝の笑顔が、定信義市の身体を縛っていた。
それは、すでに自分では身動きできない状態まで麻痺していた。
東条紗枝の心の奥に秘められた、謎めく笑顔。
定信義市は、あたりを気にしながら、彼女から少し遅れてマンションのコンコースに入った時、足が動きが止まった。
「どうかしたの? 怖気づいた……」
前を歩いていた東条紗枝が、表情を変えずに言った言葉は、定信義市の身体を硬直させた。
「いえ、用事を思い出したので、やはり帰ります」
「そうなの、止めないけど……残念ね」
「さよなら」
定信義市は頭を下げてマンションの入り口に出ると、後は転びそうになりながらも脱兎の如く坂道を走りおりた。
下り切った三叉路で、出会い頭に自転車とぶっつかりそうになる。
定信義市は片足で二三歩半回転して、上手く体をかわした。
自転車に乗っていたのは女子高生だった。
「定信くん!」
久しぶりに会う、学校帰りの古室由香里だった。
由香里も驚いた様子で自転車の上で目を丸くしていた。その目は坂道の上に立っている東条紗枝の姿もとらえていた。
彼女が高校生になってから、東条紗枝は由香里にピアノを教えることはなくなっていた。
「ごめん!」
定信義市は素直に謝った。
「大丈夫よ。でも……」
由香里は自転車から降りて、東条紗枝がいる坂の上を見た。
何かを責めるような顔つきだった。その表情が何を意味しているのか、定信義市は咄嗟に悟った。
「俺の高校の音楽の先生だよ。今は……」
「そう、なの」
「なんだよ、意味深なイントネーションだな」
「だって、あそこのマンションは東条先生のマンションでしょ」
「そうだけど……」
由香里が何を言いたいのか、定信義市には理解できたが、説明するのが面倒だったし、別に由香里にどう思われてもいいと言う気持ちもあった。
東条紗枝は二人の視界から消えて、坂道の向こうに見えなくなった。
「まあ、いいわ」
「何が、まあいいわ、だよ」
「私、知ってるもん……」
由香里は自転車を少し転がしながら、何故か、秘密めいた表情をつくった。
「何を知ってるって……?」
「東条先生が定信君を好きだってことを……前に東条先生から聞いたことがあるのよ。定信君が大好きだ、って……」
「馬鹿! いい加減なことを言うなよ」
定信義市は言葉を投げつけ、目を吊り上げた。
高層マンションの一室のカーテンが開かれた。
そこの濡れた窓から見えるのは、小さな二人の姿。
仲良く話す、定信義市と古室由香里。
それを見下ろすのは、無表情な一人の女性、東条紗枝だった。
北海道からの転校生が次回に登場……。
由香里と定信義市を見つめる東条紗枝の視線は何を意味する。
読んでくださって有難うございます。