29 きみが、さやけき
それは、美術の時間に定信義市が描いた一枚の絵だった。
彼は意識しなかったが、描き出したら時間を忘れるくらい集中出来たから、絵を描くのが好きだったのだろう。
定信義市が描いたのは、大きな立ち木の下で少年が手を振り、少女が立ち去って行く、別れをテーマにした絵だった。
絵の少女は薄むらさきのブラウスに黄色いスカーフを巻いていた。
そして、少年が持つ一輪の忘れな草の花。
「私を忘れないで……」そんな少女の願いのこもった花。
その絵を描き終わった時、定信義市は別に何も思わなかった。
彼が驚いたのは、それが廊下に張り出され、展示された一枚の絵として見たときだった。
大きな立ち木の下から立ち去る、薄むらさきの少女は定信義市に桂木美鈴を思い出させたのだ。
これは彼の脳裏にある桂木美鈴の記憶の像の切れ端だった。
忘れたと思っていた。
それが、定信義市の潜在意識の中で存在し続けていた。
それも、限りなく愛おしい存在として、無意識の中で生き続けていたのだ。
見えないからこそ……その存在は、定信義市の人生にかかわっていた。
遠くに別れた今、会いたくても会えないから、そのからくりの中で定信義一は恋を続けていた。
それは不確であり、頼りなげであった。
だからこそ、定信義市自身、自覚することがなかったのだ。
今にも消えそうな、か細い蝋燭の炎にも似ていた。ふっと息を吹きかければ、そこには闇があるのみだ。
真の闇ならば何も見えない。
音すら消える。
たくさんの会話も、ほとんどが闇の中に消えていた。
(春過ぎた桜花、真夏の路肩雪、そして、僕が知る君の笑顔)
みんな、消えた。
残っているのは、悲しい言葉だけ。
思い出したくない言葉ばかりが、爪の先ほどの光を灯す。
たった一度、桂木美鈴が別れ際にささやいた、ひとこと……おぼろげな、彼の気持ちの中に留まっている言葉に行き当ってしまう。
「私はそう長く生きられないの。お医者さんがそう言ったのを聞いたの。長くて二年ですって、三年は駄目だって……」
その時、定信義一は聞こえない振りをして、話題を変えた。でも、気持ちの中で、その言葉を信じていたのかも知れない。
だから、桂木美鈴に心からの優しい言葉を、かけてやることができなかった。
まだ子供の定信義市に上手く言えるはずがなかったし、全てが嘘になるからだ
気の利かない言葉が桂木美鈴を慰めた。
「大事なのは、病気を治すことさ。絶対よくなるよ。僕が保証する」
どんな言葉でも良かった……定信義市が言った言葉なら、桂木美鈴は胸に仕舞えたからだ。
定信義一の保障が何にもならないことを、彼が一番良く知っている。
神様よりも誰よりも……。
それ以上、桂木美鈴が知っていた。
その時、見せた悲しそうな彼女の横顔を見れば……定信義一は下を向いた。
まだ幼い少女が死の恐怖に耐えているのを、心を痛めずに見ることなんて出来なかった。
一枚の絵が証明したのは……定信義市は決して桂木美鈴を忘れてはいなかったという事だった。
忘れていないからこそ、同じ年頃の女子に恋をすることが定信義市にとって意味なく苦痛だった。
それは紛れもなく、桂木美鈴への無意識の想いの裏返し。
同級生の女子には、いつも、ぶっきらぼうな定信義一だった。
そうすることが、定信義市の見えざる者への体現だとしたら、それが東城紗枝への憧れと拙い想いにつながっていると言えなくもない。
親しげに定信義一に近づく東城紗枝が、美鈴の向こう側に佇んでいても、なんら不思議ではなかった。
定信義市は高校生活ではクラブ活動に力を入れた。
彼が入部したのは陸上部だった。
他のクラブと鉢合わせしながら、グラウンドから中庭を走り抜ける。そんな周回コースを幾度となく、繰り返す。
定信義市は中庭を通るとき、音楽室からピアノの音が聞こえてくると足取りが軽くなるのが分かった。
音楽室の窓が開けられ、窓から東条紗枝が顔を出して、陸上部が走っていくのを黙って見ていることもあった。
「頑張って!」
東条紗枝が一言でも声をかけようものなら、陸上部の男子は脳天から舞い上がって、お尻を振り振り疾走していくのである。
定信義市と轟真吾は同じ陸上部だった。
二人は並んで走っていた。
定信義一も轟真吾も中庭を走るときは、まず音楽室に東条紗枝先生がいるか、いつも、それが気になった。
音楽室の窓が半分開けられ、窓枠の切り取られた視界から東条紗枝先生のモノクローム写真を思わす姿を定信義一の目が捉えた。勿論、轟真吾が見逃すはずがない。
軽快なピアノ曲が足にまとわりつく。
「おい、定信! あれはきっと俺のために弾いているんだぜぇ」
轟が横を走っている定信義一に向かって言った。
「そう思える轟は幸せな男だ」
「褒められると照れるじゃねぇか……あれ、なんてぇ曲か知ってるか……? シャンパンという作曲家の英雄マヨネーズちゅう曲だぁ」
「シャンパン……? そんな作曲家、いたっけ……」
からかい半分だった。
「無知な男は、これだから嫌なんだ」
轟真吾は顔を上に向け、首を左右に振りながらスピードを上げて定信義一を置いていった。
さらに、東城紗枝先生のピアノは続いていた。
音楽室の少し開いた窓から、ほの暗い音楽室がかすかに見えた。
ピアノの前に座る東城紗枝の横顔がシルエットになった。
定信義一走るのを中断して靴の紐を直すしぐさをしながら、音楽教室を覗き込んでいた。
それは覗いていると表現して間違いがなかった。
先に走っていった轟は周回が終わって、まだ定信義一が音楽室の裏にいるのに驚いて大きな声で叫んでいた。
「定信の助平やろうぉぉ!」
同時にピアノの音が突然止まった。
驚いた定信義一は耳を押さえながら、轟から逃げるように走り出した。自分の姿を消すかのように足早に駆け去っていった。
走りながらも定信義一の耳には東城紗枝のピアノが流れていた。
彼をすっぽり包み込んでしまうほどに、その音はだんだん大きくなっていった。
忘れられないから、思い出す。
忘れたはずなのに、やはり、思い出す。
忘れようとしても、なお、思い出す。
思い出の君が……忘れられない。
読んで頂いて有難うございました。