2 たのしき、恋の
東京の郊外の住宅が立ち並ぶ閑静な町。
定信義市の家から三軒向こうに、身体が弱く通学もままならない同級生の桂木美鈴の住居があった。
定信義市は五年生のクラス替えで、はじめて桂木美鈴と同じクラスになった。
しかし家が近いという理由だけで連絡帳を持って来るようになるまで、一度もその姿を見たことがなかったのです。
最初の頃は玄関先で母親に連絡帳を渡して、さっさと家に帰っていた。
玄関に家族の靴と並んで、かつらぎみすずの名前入りの運動靴が並べてあっても、部屋で寝ているのか姿を見せることはなかった。
その日は学校の行事で、いつもより遅く桂木美鈴の家のベルを押した。
表の木戸をあけて、玄関までの短い距離を歩く間に玄関の引き戸が開いて母親が出てくるのだが、その日は留守なのか誰も出てこない。
仕方なく郵便ポストに連絡帳を入れて、そのまま立ち去ろうとした時、玄関前にタクシーが止まり桂木美鈴の母と、一人の少女が降りてきた。
花柄のワンピースに真新しい白い靴と靴下。黄色い帽子が眩しく見えた。
長い黒髪の向こうで大きな瞳が驚いたように定信義市を見つめていた。
タクシーが軽快な音をたてて走り去っていった。
「連絡帳ですか、いつもありがとうね」
「留守だったんで、ポストに入れて……」
母親は定信義市の言葉を待たずに言葉を継いだ。
「病院に行っていたものだから……美鈴、いつも連絡帳を持ってきてくれる定信君よ」
「いつも有難う。さだ……」
「……さだのぶ、定信義市です」
突然の桂木美鈴との出会いだった。
「ちょっと待ってね、定信君」
そう言って母親はバッグの中から菓子袋を取り出して「沢山買いすぎて、よかったら食べて……」
定信義市は母親から押し付けられるように、その菓子袋を受け取っていた。
母親にお礼を言い、もう一度、桂木美鈴の方を見てニッコリ笑った。
桂木美鈴はその笑顔の意味を考える間もなく、母に急かされて家の中に入っていった。
帰り道……定信義市は、しきりに後悔していた
別れる時に桂木美鈴にニッコリ笑ったことを……。
会ったばかりなのにニッコリ笑ったりしたら、どうしたのだろうと思われるのではないか……。
なんて馬鹿なことをしたのだろう。
定信義市はその夜、なかなか寝付かれなかった。
笑ったことへの後悔と、突如、その姿を見せた桂木美鈴が、はるかに想像を超えて可愛いことに動揺。
その愛らしい姿が頭の天辺に現れては消え、消えては現れるを繰り返していたからであった。
(なんて可愛い子なんだろう……)
また会いたいな……。
早く、明日になって連絡帳をもって桂木美鈴の家に行きたい。
定信義市は橙色の光の豆電球を睨むように目を開けて考えていた。
そして愕然となった。
まさか……そんな……。
目が見開いて、すぐに閉じた。
明日は日曜日だ。
定信義市は情けないほど悔しかった。
この夜ほど、明日が日曜日だというのが恨めしく思ったことは、後にも先にも終ぞなかったのである。
突然の出会いはたのしき、恋の予感です。
読んでいただいてありがとうございました。