26 わが踏む、道に
古室由香里の部屋からピアノの音が聞こえていた。
ピアノを弾いている由香里の横には、東条紗枝が窓を向いて立っていた。レースのカーテン越しに見える景色を眺めているようだ。
由香里の指が最後の鍵盤におろされた。
真っ直ぐな音が、次第に小さくなって消えていった。その音が聞こえなくなるまで、二人は音の中をただよっていた。
「よかったわ。上手になったわ」
東条紗枝は拍手をしながら言った。
「先生は褒め上手だから……」
照れた由香里は少し顔を赤くした。褒められると嬉しくなり、嬉しくなると頬が朱に染まる。
「まだ少し時間があるから、もう一曲、弾いてみようか……」
その言葉を遮るように由香里は東条紗枝を見た。頬の朱は消えていて、目が赤くなっていた。
「先生……」
言葉が止まった。出てこないのではなく止めたのだ。
「なぁに……?」
東条紗枝はニッコリ笑って由香里の表情を和らげるように目を向けた。……その瞬きの間に、もとの明るい古室由香里がそこにいた。
「先生は美人だから、きっともてるでしょう……好きな人がいるんですか?」
「ちょっと、待ってよ……そんなことを聞くということは、うーん……由香里ちゃんこそ好きな人がいるんじゃないの?」
「それが、いたりして」
「へえ、どんな子なのかな?」
「先生も知ってる子……」
「先生も知ってる子って?」
しばらく、口に手を当てていた由香里は、その手を下ろすと、クルっと後ろを向いた。
「定信君よ」
顔を見られるのが恥ずかしいのか、背中を見せたまま嬉しそうに答える由香里を見て、東条紗枝はあえて表情を変えなかった。
「定信君……あの子が好きなの」
「そう……ぶっきら棒だけど本当は優しいの。それに笑うと可愛いのよ」
由香里は楽しそうに定信義市の話を続けた。ピアノの話しをしている時とは言葉のトーンがちがった。
「定信君なら、先生も好きよ」
東条紗枝の声を聞いて、意外そうな顔をした由香里だったが笑いながら言った。
「駄目よ。ぜったい駄目!……それに定信君には好きな子がいるのよ」
「へぇ、由香里ちゃんじゃないの」
「私は相手にされてないわ。片思いなの」
別に定信義市に告白したわけでもない。由香里は自分の容姿に自信なかったから、かってにそう思っていただけだ。
由香里の顔を見るとクラスの男どもが、ぷっと吹き出す。
年頃の女子としては、たまらなく辛い。
それでも、持ち前の明るさを失わなかったのは、定信義市や三平が、かばってくれるからだ。
由香里が東条紗枝に友達の話しをしたことは、ほとんどなかった。
「少し前のことなんだけど……」
定信義市との話しを、トキメキの表情で由香里がゆっくり話し出した。
由香里は駆け足になった。その前には下校中の定信義市と青柳三平がいた。
「また笑われちゃったわ」
由香里は二人に追いつくと背中越しから、ため息混じりに呟いた
「由香里! 化けてやれよ」
定信義市が胸の前で手をたらして幽霊の真似をした。
「やめてよ! 失礼しちゃうわね」
定信義市の手を叩いて頬を膨らました。
「だって、化粧したら美人に見える!」
由香里は笑ってはいるが、腫れぼったい目が気になるのかチラッと定信義市をにらむ。
「……」
「まぁ、気にすんなよ。って言っても気にしてないだろうけど……」
定信義市の由香里の肩を叩いて明るい声で言った。
三平はなぜか、二人から少し離れて歩いていた。
由香里が嫌いなわけではなかった。
女と一緒に歩くのが嫌だったのだ。
「小学生の頃に比べたら、そりゃ……ずい分美人になったのに。もしも、今度は笑う奴がいたら、俺が、ぶん殴ってやるから」
「無理しない、無理しない」
「冗談じゃない! 俺は自分で編み出した必殺拳がある。なぁ、三平」
後ろを歩く三平を振り向いて答えを促した。三平は笑って相手をしない。
定信義市は三平に感化されて、自己流の功夫を作ったのだ。
もちろん、格闘技好きの父親の尽力のたまもの。
「名づけて、一休拳!」
定信義市は三平ゆずりの見得を切った。
その命名には、一休和尚が好きな、父親の影が見え隠れする。
定信義市は後ろを歩く三平の反応をうかがう。相変わらず、三平は苦笑いを返しただけだった。
どうやら定信義市が言った一休拳は全くでたらめと言う訳ではなかった。
「いいか。起承転結が基本技。まずは起……花を見よ 色香も共に 散り果てて 心無くても 春は来にけり」
定信義市の一休拳も言葉に合わせて体が動く。芭蕉拳と似たものだった。
「承……有漏路より無漏路に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
定信義市の動きも中々さまになっていた。由香里はそれにはあまり興味がないのか定信義市から離れて、三平に近づいて腕をつかまえた。
「定信クン、どうしちゃったの……」
「さぁ、覚醒したのかな」
「出家したの?」
「さぁ、親父から教わったらしいけど……」
二人をよそに定信義市は道端で立ち止まった。
「転……生まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も」
そこまで言って定信義市はふっと目を瞑った。
「訳、わからない? それで私を守ってくれるの……」
由香里は定信義市に聞いた。それに答えたつもりか、目をカッと見開いた。
「結……門松は 冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
定信義市、身体から力を抜くと、ふっと息を吐き出して由香里を見た。
「勿論! 竹本からも、菅野からも……」
まさに、男、定信ここにありであった。
「菅野くん……いいのよ。無理しなくて、そんなことで怪我でもしたら、私あなたのお嫁さんなるしかないわ」
定信義市はガクッと膝を折った。
「何で嫁さんにしなきゃならないんだ」
「だって。顔に傷でもつけて、もてなくなったら私が責任取らなきゃならないでしょう」
「大きなお世話だ」
「それに、定信君と三平君も、私の顔を見て笑ってるでしょう」
「そんなことはしないよ」
「ほんと?」
「人前では笑わない」
「じゃどこで笑うの?」
「人のいない所で……」
「ひどいわ……」
定信義一の話を、楽しそうに話す由香里だった。
壁の時計の長針が四十五度ほど傾いた。
話しを聞いている東条紗枝は、微笑をたたえていても、その視線は遠くの何かを探しているようだ。
それが何か、東条紗枝さえ手さぐりなのに、古室由香里にわかるはずがなかった。
まだ、懲りずに出してしまいました。
一休拳。
漫画の一休さんのモデルですが、実際の一休さんは自ら狂雲子と名乗り、狂雲を操り、狂風の嵐そのものという人でした。
文中以外にも、実に香りのしそうな言葉を残しております。
『世の中は 食って糞して寝て起きて さてその後は死ぬるばかりぞ』
読んでいただいて有難うございます。