25 人、しれずこそ
誕生会が終わり、古室由香里は母の聡子とともに、皆が帰るのを見送るため庭に出ていた。
定信義市と青柳三平は玄関を出たところで待っていた。
東条紗枝は誕生会の途中から姿が見えなかったので、先に帰ったのだろうと定信義市は思っていた。
二人が立っていた横のガレージのシャッターが上がって、その中から黒い高級車がゆっくりと走り出た。
由香里の父親の古室宗三郎が運転する車だった。その車は家の前には止まらず、そのまま走り去った。
後部座席には東条紗枝が乗っていた。
気になるのか定信義市は、その車が走り去るのを、じっと見ていた。
そんな定信義市の耳を由香里の声が通過した。
「定信くーん、そして、三平君、今日は本当に有難う」
由香里は二人を前にして嬉しそうに言った。
「食べ過ぎて、苦しいよ」
定信義市はお腹を押さえる仕草をした。
「ほんと、遠慮せずによく食べてたわね」
「ごちそうさん」
三平も同じようにお腹をさすった。
「このっ!」
由香里は二人のお腹にパンチの真似をして、口を歪めた。それでも顔は笑っていた。
「ところで、私のピアノはどうだったの?」
「それは聞かない約束」
「そんな約束したっけ」
「してなかったっけ」
定信義市と三平は由香里に思い切り足を踏まれた。
「今、車で出て行ったのは由香里の父さんか?」
定信義市は今走り出た車を指しながら聞いた。その刹那、由香里の表情が、にわかに曇ったのを定信義市はハットした気持ちで見ていた。
その近くで由香里の母、聡子は友達に笑顔を送りながら、同じように夫、宗三郎が車で行くのを寂しげな目で追っていた。
その瞳が何を訴えているのか由香里はうすうす気がついていたし、宗三郎が東条紗枝を車で送ることに小さな胸を痛めていた。
ましてや、母は……。
(なぜ、父はこんなことをするのだろうか? 母が辛い思いをするのがわからないはずはないのに……)
いつも聡子が宗三郎の身勝手な行動で辛い思いをしていることを由香里は知っていた。
おまけに、由香里の母は病弱で、近年は病院の入退院を繰り返す生活だったせいか、家にいる時は決して反発しなかった。夫のために精一杯尽くし、いくら怒鳴られても黙々と仕事をこなしていた。逆に、それが宗三郎には物足りなかったのかもしれない。近所の人がまるでお手伝いさんみたいだと、噂するくらいであった。
由香里は父が何を考えているのか知らない。
ほとんど家族とは話さない人だったからだ。
だから、父を許せなかった。
宗三郎が東条紗枝を送って行くことが、中学生の由香里には何を意味しているか、はっきりとわからなくても、母の表情を察し許せないと思う気持ちが心の内に巣くっていた。
由香里の大切な母が悲しむことは、自分が悲しむことと同じだった。母の心の痛みは二倍になって由香里に返ってくる。その痛みが増して耐えられない境界を超えた時、その思いは父への反発に向かっていく。
夜空には、大きな丸い月が光っていた。
車のヘッドライトが月を二つ並べたように夜の街道を照らした。
車の中の二つの影は無言だった。
ラジオから、プロ野球中継が流れて、興奮したアナウンサーの絶叫が聞こえていた。続いて悔しそうな男の声がした。
緑の木々が葉を流し、暗天の月を横切っていく。薄明るい外灯が尾を引いた。
後部座席に座った東条紗枝は、ぼんやり携帯電話に目を落としていた。
「野球は嫌いか……?」
古室宗三郎の声が聞こえた。
聞こえたはずなのに、少し間が開いた。
「なんのことですか?」
気のない返事がエンジン音に混じった。
「いや、なんでもない」
宗三郎の表情は暗く淀んで、声も力なく沈んでいった。
何かを言おうとして口ごもった。少しの沈黙は二人の間では悠久の長さであった。
「今度、ゆっくりと食事をしないか?」
宗三郎の口から吐き出された言葉は、東条紗枝には聞こえないのか、さらに悠久の中であった。
車のエンジン音が不規則なリズムを刻み、静かな車内にはタイヤがアスファルトを捉える音だけが響いていた。
その中に東条紗枝の声はなかった。
車は左にウインカーを点滅させ、道路の左端に停車した。
東条紗枝は車から降りると振り向きもせず、真っ直ぐ坂を上っていった。
車は暫く停車していたが、右にウインカーを出すと、ゆっくり走り出した。
そのとき振り向いた東条紗枝は、そこに何もないのを確認すると小走りに闇の中へ走り去った。
宗三郎は帰ってくると無言で二階の自室に入った。
由香里が父の部屋をノックしたのはそれから直ぐだった。
「どうしたんだ。小遣いが足らなくなったか?」
宗三郎はゴルフクラブを手にしていた。
父の言葉に由香里は首を振って、感情を込めない声で言った。
「どうして東条先生を車で送っていったの。先生が嫌がってたのに……」
「暗い寒空だし、雨も降りそうだったからさ」
「そう、東条先生には優しいのね。お母さんの何倍も……」
「何が言いたいんだ」
由香里の思いつめた表情に宗三郎は何かを感じたのか、父としての威厳を込めたつもりだった。
「お母さんは何にも言わないけど、きっと寂しかったはずよ」
由香里が母を思う気持ちは宗三郎にも理解できたし、そのことは嬉しくもあった。
「母さんは分かってくれているさ。まあ、あとで話しをするよ」
そう言ってゴルフのパターの真似をする父の言葉に、由香里は言い知れない軽薄な思いを感じ、激しい怒りがこみ上げてきた。
「何故あとで、なの。今じゃ駄目なの」
珍しく声を荒げる由香里に父はしばし言葉をとめた。
言いたいことは山ほどあった。
言えない事も、また山ほどあったからだ。
「由香里!あとで話すと言ってるんだ」
「そう言って、いつも逃げてばかり……」
「いいか、お父さんは会社のことで頭が一杯なんだ。会社の経営に失敗すれば、お金が稼げない。うちの会社で働く社員やその家族、勿論、由香里もそうだ、みんなが路頭に迷うことになる」
「そのことが、嫌がる東条紗枝先生を送っていい理由のなるの。送ってから何したの? 東条先生と何をしたのよ!」
由香里は涙をためて父の言葉を待っていた。
父はゴルフクラブを横において由香里を見つめた。
「今は何にも言えない。由香里に何を言われても、弁解の余地はない。ただ先生のために言っておく。東条先生は尊敬に値する立派な先生だ」
「別に先生のこと言ってるんじゃないわ。先生がどんな先生でもかまわない。ただお母さんを悲しませないで。それだけよ」
由香里の言葉に宗三郎は何にも言えなかった。
階段の下で、それを聞いていた古室聡子は由香里の胸の内を思いそっと涙を拭いた。
東条紗枝はどこか謎めき、由香里は父と母のことで涙する。
定信義市はそんな東条紗枝に不可思議な視線を投げる。
金の折鶴を残して去った、桂木美鈴との運命の出会いは?
読んでいただいてありがとうございました。