24 誰に、かたらん
桂木美鈴からの手紙は一ヶ月、半年と過ぎても定信義市の元に届かなかった。
一年が過ぎた頃には、そのことさえ考えないようになっていた。
中学に進級すると、桂木美鈴も、金色の折鶴も、遠い景色の中でしか存在しない懐かしい思い出の一つになった。
それは自然の成り行きだった。
当時、桂木美鈴の家には常緑樹の垣根があったが、それがブロックの塀に変わって玄関も作りかえられていた。
当たり前だが違う表札がかかっている。
定信義市は毎日、そこを通るたび、懐かしく思い出しブロック塀を眺めては、ため息をつくのだった。
しかし、青柳三平は少し違っていた。
「おれは男だ。別に桂木さんに会えなくなっても、ぜんぜん平気だ」
三平はやはり胸を張って答える。
「お前も中学生になったんだから、少しは変貌しろよ」
「義一の言いたいことはわかる。勿論、俺は男だから女を好きになることもある。でも男の友情を俺は大切にするんだ」
「それは当たり前だろ」
「俺は自分の信じた道を行く。親がどんなレールは敷こうが、決めたことはやりぬくつもりだ」
三平は思っていた。
食卓の上に豪華な花や御馳走が並ばなくても、ブランド服や靴を持って無くても、雨音がやかましかろうが、友情を大切にして生きていく人生が、つまらないはずがないだろうと。
「でも、三平は桂木さんが好きだったろう‥‥」
「あぁ‥別れるのが寂しかった。でもそれだけだよ」
定信義市はそれだけでは無いだろうと思った。そして三平が何を考えているか、手にとるように分かった。
それが分かっても、決して口には出さない。
「桂木さんは義一が好きだったんだ‥‥」
三平がそう決め付けた。
「そうだと嬉しいけど、少しちがう」
定信義市はやや面長になった、少し大人びた三平の顔を眺めた。
「桂木さんは、きっと二人とも好きだったんだ」
それは、ある程度当たっていた。
美鈴の思いは二人が想像しているより遥かに切なかった。
残り僅かと思う中で定信義市を好きになり、そして青柳三平を意識して、さらに全ての人を心から愛そうと思っていた。
その時、その大変さを、幼い彼女は知らなかった。
知らないから出来ることが山ほどあって、知ってしまうと出来ないことが山ほどあった。
「今、どうしてるかな?」
「きっと、俺たちのことを考えて……微笑んでたりして」
そんな想像が、定信義市の頭を掠めた。
彼が知っている桂木美鈴は、それほど笑うことのない子だったのに、思い出の中では、いつも微笑んでいた。
それでも、去っていった人の記憶は間違いなく消えて行く。
新たな思い出が、日々の数だけ重なっていくのを、止めることが出来ないと同じように……。
中学一年の年も越え、如月の冷たい風が粉雪を運んでくる頃、古室由香里の誕生会に定信義市と青柳三平は招待された。
定信義市の思いが大きく変化したのは、実はこの時だったかも知れない。
十数人の招待者に混じって畏まっていた定信義市と青柳三平の前に、由香里は華やかにドレスアップして、やや大人びた雰囲気で登場した。
由香里はピアノの前に座ると静かにピアノの演奏をはじめた。しばし二人は眠気眼を忘れて目を瞬かせつつもお互い顔を見合わせ驚いた。
由香里は化粧をしているせいか、小学生の時とはちがい華のある顔立ちに見えたからだ。
この時は、二人とも、女性として変貌を遂げようとする由香里のことを眩しく眺めていた。
一つのことをやり遂げようとする姿が、眩しくもあり、羨望でもあった。
「古室さんも、なかなかやるもんだ」
三平が感心していると、定信義市は皿に手を伸ばしポテチを口に入れて言った。
「漢方を今でも続けている、三平も大したもんだ」
「決めたことだから……。それに、この功夫は伝える価値があると思ってるから」
「古池に蛙が飛び込んだ水の音、がか? じゃ、俺に伝えろ……俺なら、松島や ああ松島や 松島や。あっちゃ!」
定信義市の手が空を切り、ポテトチップスが宙を飛ぶ。それを三平は口で見事キャッチ。
「残念ながら、師匠はその句は俳諧連歌芭蕉拳で使わなかった」
「マジで……どうして?」
「詳しくは聞かなかったけど、芭蕉の俳句じゃないらしい」
「芭蕉の俳句じゃないのか? そう習った気がするけど……」
そんな話しをしながらも、定信義市の意識は由香里の横にいる東条紗枝に向いていた。
由香里のピアノが終わってから、私のピアノの先生として東条紗枝を紹介した。
定信義市とっては四度目の出会いだったが、水色のドレスを纏った東条紗枝は美しく、胸元のネックレスは星のように輝いて、中学生の少年が怪しく胸をときめかすのは至極、当然と言えた。
東条紗枝の、あでやかな微笑みが、定信義一に向いているのに気がついたのは三平だった。
「あのピアノの先生の胸のでかさは永遠のクエスチョンだ。それにしても義一ばかり見てるのは、やはり謎だな……」
三平はご馳走を口に放り込み、軽く舌打ちをした。
「目が悪いんじゃないか」
「男の趣味が悪いんだよ」
定信義一がチラチラ東条紗枝を見るのを、三平は目で抑えて一言だけ言った。
「由香里の誕生会にくるんだから、俺も女の趣味が悪い」
「それを言うなら、俺も同類」
「しかし、由香里化けたな」
「あぁ、うらめしやぁ……」
その笑いは直ぐに凍りついた。二人の目が同時に泳いだ。気がついたら、東条紗枝が定信義市の側で立っていたからだ。
「あの時は約束に遅刻しちゃったわ」
彼女は、そう言ってニッコリ笑った。
「えぇ……」
定信義市は一瞬、何のことかわからなかった。
「忘れたかしら」
「はっ、いえ」
「覚えていた?」
「はい」
「よかった」
安堵の笑顔だった。
そのまま、東条紗枝は由香里に呼ばれてピアノのところへ戻っていった。
定信義市はそのうしろ姿を見つめ、思い出したかのように目を上げた。
(そうだ。拾った鶴のアクセサリーのこと言わなくちゃ)
その目の先には、今、ピアノの前に座った東条紗枝の姿が眩しく輝いていた。
再び目が合った。
定信義市はあわてて目をそらした。
隣では、知らぬ素振りで三平がお菓子を食べていた。
その時も東条紗枝がニコッと微笑んでいたことを、目をそらした定信義市は気がつかなかった。
再び目を上げた時は、東条紗枝のピアノの音が静かに誕生会を包み込んでいた。
このリズムは……。どこかで聞いたことのある曲だった。
いろんな思いは定信義市の中でうねりはじめていた。その渦の中へ東条紗枝の弾くピアノの音は、ためらいもなく溶け込むように入ってきた。
由香里のときにはなかった、不思議な感覚だった。
東条紗枝は誰にむかってピアノを弾いているのだろうか?
彼女は笑顔を、ときおり定信義市に向けた。
彼は、そのつど目をそらし、目を瞑って小さく深呼吸をする。
どうしようもない胸の高鳴りと、ありえない現実の狭間に、その身のおき場所を思案しているかのように。
何となく元の道に戻ることが出来ました。そして定信義市は中学生となり、高校生と成長していきます。
余談
『松島や ああ松島や 松島や』は芭蕉の俳句ではないと最近知りました。
ゆえに、青柳三太夫は俳諧連歌芭蕉拳の必殺の絶技であった、この一句を永遠に封印さぜるおえなかったのであった。
義務教育で、そう教えてもらった記憶があるのですが……ねぇ。
読んでいただいて有難うございました。