23 あゝ、かくまでに
定信義市は突然、後ろから両手で目隠しをされた。
冷たい手だ。
それに反して、やさしい香りが漂う。
「だーれだ?」
少し低めの女性の声が聞こえた……定信義市は内心あせった。
わかったような気がしたけど、わからないふりをした。
そうするほうがいいんだと漠然と思った。
「手を離すから、10読むまで目を開けちゃ駄目よ。わかった」
「うん」
定信義市の返事を聞いてから、目を覆っていた手が離れた。
定信義市は言われたとおり、10を数えてから目を開けた。
ぼやけるのか、目を手でぬぐうと、白い霧が晴れたように焦点が合った。
その瞬間からはじまった定信義市の心臓の鼓動は、この世のものとは思えないような早鐘を打った。
信じられない驚きだった。
玄関脇の木戸の前に、北海道へ転校したはずの桂木美鈴がニッコリ笑って立っていたからだ。
夢だと思ったので耳を引っ張ったら痛かった。
定信義市はその痛みを我慢しつつ、ニッコリ笑った。
「笑ってくれるの。嬉しいわ」
大人びた声が定信義市の頭を直撃した。それは定信義市を覚醒させるに十分だった。
そこにいたのは桂木美鈴ではなかった。
玄関脇の木戸の前に立っていたのは、古室由香里のピアノの先生の東条紗枝だった。
「ちょっと、教えてくれる。ここから古室さんの家にはどう行けばいいのかしら? 赤い屋根の大きなお家……」
そう言って、からかうように小首を傾げ、悪戯っぽく口元をゆるめた。
定信義市は人指し指を、道なりに真っ直ぐ伸ばした。
「ありがとう。よくわかったわ」
その時、東条紗枝の手にあった携帯電話が鳴った。
「あら、もうこんな時間!……約束に間に合わないわ。じゃ、またね。定信くん」
軽くウインクして東条紗枝は小走りで、そこから去って行った。
定信義市は彼女のうしろ姿を目で追っていた。その姿が小さくなって、霞のように見えなくなるまで……。
理由はわからない。
なぜ、東条紗枝を桂木美鈴と身間違えたのかも……定信義市にはわからなかった。
その時、定信義市の足元に小さく光る物があるのに気がついた。
彼はそれを拾うと、大豆くらいの大きさの金色に輝く鶴のアクセサリーだった。
その輝きは、彼が初めて東条紗枝に会ったときのことを思い出させた。
彼女のポシェットで、金色の鶴のアクセサリーが陽光を反射して揺れていたのを……
定信義市は不思議だなぁ……と手のひらの金色の鶴のアクセサリーを眺めた。
別に眩しかったわけではなかった。
奇妙な感情が湧き出てきて、目を開けていることが出来なくなったのだ。
桂木美鈴から貰った金の折鶴は無くしたものか、いくら探しても出てこなかった。
そして今、桂木美鈴の家の前で、東条紗枝が落とした金色の鶴のアクセサリーを拾った。
まるで桂木美鈴と入れ替わるように現れた東条紗枝……偶然とはいえ、その不思議な出来事は、定信義市の心のどこかに刷込められ、しだいに変貌を遂げていくことになる。
定信義市のクラスは鳴りを潜めていた。
あれ以来、竹本勝海は菅野芳治に対して、一定の距離を置くようになっていたし、菅野も必要以上に竹本に話しかけることはなかった。
ただ、竹本は菅野にやられた日、両親に引きずる足のことを追求され事実を話していた。
「そんなに強い男がいるなら、一度つれてこい。可愛がってやる……」
親が鼻息荒く憤怒しても、竹本はそのことを菅野には言わなかった。
親の出る幕ではないと内心思っていたのだ。ところが親はそうは思っていなかった。
翌日、業を煮やした竹本の母親が、突然、血相を変えて学校に乗り込んできたのである。
一時間目が始まって、担任の山本和子先生が社会の授業をしている時であった。
「楠木正成、千早赤坂城の攻防……攻めてくる鎌倉幕府、百万の大軍勢」
山本先生、お得意の講談調の授業であった。
口調も滑らかになってきた時、教室のガラス戸が大きな音を立てて開いた。そこに飛び込んで来たのが竹本勝海の母であった。
山本先生は驚きのあまり、開いた口が開いたままになった。
竹本勝海は目の前で展開されている出来事に、唖然とした表情で立ち上がりかけた。
そんなことはお構いなしに、竹本の母は生徒を前にして大きな声で呼んだ。
「この中に菅野と言う狼藉者がおるはずじゃ……」
皆の目がチラチラッと菅野に集まった。
ところが、竹本の母は皆が見た菅野ではなく、窓際に座っている青柳三平を睨んだ。
「おまえか!」
三平はなぜ名指しされたのかわからなかった。きょとんとした表情はそれを物語っていた。
その時、冷静に戻った山本先生が大きな声で叫んだ。
「今は授業中です! 話があれば、あとで聞きます」
竹本の母はその声を無視して、三平の座っているところへ恐ろしい早さで走った。
「おまえが菅野だということは私にはわかっている。御身から発せられる殺気は尋常ではない。わしの息子がやられるのも致し方あるまいて……」
三平はそう言われれば立ち上がるしかない。
「僕は……青柳です。青柳三平です」
三平は自ら名乗った。
その言葉が発せられた途端、竹本の母の顔色が変わった。
「菅野じゃない? 青柳……だと、あおやぎ……」
急に黙り込んだ。
何かを思い出そうとしているのか、時が止まったような遠い目が瞬きをしない。
ガタッと椅子の音が鳴った。
「俺が菅野だ。あんた竹本のお袋か!」
菅野良治は人違いされている青柳三平に助け舟のつもりか大きな声で呼ばわった。
悪の男、菅野芳治なりの男の示し方であった。
それすら聞こえないのか……竹本の母は青柳三平の顔を睨んでいた。
「おまえ、三太夫を知っておるか?」
打って変わって、しけた声が、それでもしっかり教室内に響いた。
「はい、叔父さんにいます」
「叔父さん……そうか」
一息ついて続けた。
「おまえ武道をしておろう。その身から発せられる心気は武道者のものだ。その武道は誰に習った」
「それは……」
「言わなくともわかる」
三平は何となく山本先生の方をみた。先生は身体が硬直しているのか動かせない。
三平の前に座る定信義一は竹本の母の気迫に呆然としていた。
「青柳三太夫が生きておるのか……」
ため息交じりの声だった。その声に感化されたのか教室内も静かになった。
その静けさの中、竹本の母の目が突如、打つ上げ花火のように輝いた。
「今どこにいるのじゃ?」
声のトーンも変化した。
「昨日、旅にでました」
しぶしぶ、三平は答えた。
「旅じゃと、どこへ行った?」
「どこへ行ったかは知りません。ただ、詩音の元へ……それが最後の言葉でした」
その言葉を聞くや否や……。
「天は我をどこまで翻弄すれば気が済むのだ。私は騙されておった。死んだとばかり思っておった……そうか、お前が三太夫の……」
竹本の母の微かに光る目は、うって変わって愛しむように三平の顔を見つめていた。
「やはり、血は争えない。どこか面影がある」
そう言うと山本先生のところへもどり「ご無礼の段ひらにご容赦を」
一言、謝るとガラス戸を開けて、脱兎のごとく走り去っていた。
しばらく、その場は異様な空気が流れていた。
そんな中、菅野芳治は竹本を睨み、竹本は罰が悪いのか頭をかいていた。
青柳三平は定信義市と顔を見合わせた。
山本先生はざわつく教室に一言、声をかけて再び社会の授業を始めた。
先生の動揺は収まっていなかった。
授業の続きは千早赤坂城の攻防戦だった。それが湊川の戦いまで飛んでしまったからだ。
「青葉茂れる桜井の……。この歌は楠木正成と正行父子、今生の別れを歌ったものであります。玉砕覚悟の楠木正成が湊川の戦いを前に、西国街道の桜井で交したという。世に言うところの桜井の別れであります。丁度時間となりました。本日はここまで」
山本先生の授業はこうして幕を閉じた。
定信義市は桂木美鈴と別れ、青柳三平は青柳三太夫と別れ、そして、これから起こる。であろう竹本勝海と母との別れ。
楠木正成と正行との別れを例えるまでもなく、何時の世も別れとは、その名とは裏腹に人の言の葉に留まり続けるものなのです。
家に帰って、竹本は教室から飛び出していったまま、帰ってこない母親を思い出しては、うっすら涙がうかべた。
父にその話をすると父は瞑目して、ドスの効いた声で一言だけ言った。
「お母さんのことはあきらめろ」
竹本の母はどこへ行ったか。
青柳三太夫とはどういう関係なのか。
そして青柳三太夫は詩音に会えたのか。
それは本編とは直接関係がないので、一応、脇に置いときます……。
定信義一とクラスの仲間、それぞれの想いは……小学校という時空の狭間を、不器用にすり抜けて進んでいく。
それは、誰もが、望むと望まざるとに関わらず……。
青柳三平の果し状の結末は、しりすぼみのまま終わりそうです。
書き忘れた部分があって修正不可能なまま、強行着陸します。
再び、はじまる純愛ドラマにご期待下さい。
読んで下さりありがとうございました。