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金色の空  作者: 古流
18/79

17 あゝ、ゆふまぐれ

 菅野芳治すがのよしはるは一人、小学校の帰り道を急いでいた。

 菅野の家は脇道を入った六軒を連ねた二階住宅の一軒を間借りしていた。

 玄関の鍵を開けてランドセルを脇に置いて、部屋の柱にかかっている時計に目を移した。

 部屋にあがり、台所に置いてあった、あめ玉を二つ手に取りポケットに押し込んで家を出た。

 菅野の母は近くの工場で働いていた。

 父とは離婚していたので、菅野は鍵っ子だった。

 毎日、五歳になる妹の桃子を、近くの伯母おばさんの家に向かえに行くのが日課になっていた。

 伯母さんの家に行くと、桃子は一人で、積み木を相手に遊んでいた。

 兄の顔を見て、にっこり笑うと駆け寄ってきた。

「桃子、帰ろうか」

 兄の声に、こっくり頷いた桃子だったが、目には小さく光るものがあった。

 それでも嬉しそうに目尻を下げたのは、菅野が差し出した手の中にあめ玉があったからだ。

 伯母さんの家では、桃子には飴玉一つ出たことが無かった。

「お兄ちゃん、ありがとう……」

 菅野は桃子の手を引いて暖簾のれんを手分け、台所をのぞいた。

 白い大きな冷蔵庫が目に入ったが、照明が消された薄暗い部屋には伯母さんの姿はなかった。

 そんなには広くない家だ。

 二階への階段をのぞき込んだ菅野芳治の耳に、甲高い声が飛び込んできた。

っちゃんかい……」

 見えない階段の向こうから伯母さんの声が聞こえた。

「はい」

「おばさん、今、手が放せないのよ。それと、明日は出かけるから、預かれないと母さんに言っといて」

「はあ、」

「そう毎日、私もあずかる訳にも行かないし。こっちも生活あるからね」

 突き放すような声が二階から聞こえてくる。

 目を吊り上げた菅野は、それでも母に言われているように大きな声で礼を言った。

「有難うございました」

 菅野は桃子の手を引いて足早に出て行った。

 玄関の引き戸が大きな音を出して閉まった。

 玄関の下駄箱の上の金魚鉢の金魚が慌てふためいて飛びはねた。

 階段の上から顔を出したおばさんは、面倒を見てやってるのになんだろうね……そんな表情で顔を曇らせた。

 

 そのまま急いで家に帰った菅野は、青柳三平との果し合いに行かなければならなかった。

「お兄ちゃんは出て行くから、お母さんが帰ってくるまでしっかり留守番するんだぞ」

 桃子を家において出ていこうとした。

「兄ちゃん、どこ行くの」

 桃子は、また一人になるのがいやだった。

「すぐに帰ってくるから」

「ほんとに」

「あぁ……」

「留守番してるから、すぐに帰ってこいよ」

 強がる桃子の声が、菅野には切ない。

「兄ちゃんは決闘に行くんだ。だから……桃子を連れていけない」

 気の強い菅野の妹にしては、伏せ目がちな、おとなしい女の子だった。

 菅野はいつも一人でいる妹を、出きるだけ遊んでやろうと思っていた。


 傾きかけた日をあびて、菅野芳治の大きな体は、たそがれ川に向かっていた。

 その足元から、体の倍ほどある大きな影が伸びていた。その影にすっぽり隠れて、桃子がにやっと笑った。  

「兄ちゃん、相手をコテンパンにやっつけちゃえ!」

 桃子は手振り、足振りでついてきたが、バランスを崩して転けそうになる。

「桃子は公園で遊んで待ってるんだぞ」

「おう!」

 威勢良く返事をして、短い足を振りあげては転びそうになっている。

 児童公園を通ったとき、公園には青柳三平の妹の千佳子ちかこがいた。

「あ、千佳ちゃんがいる。兄ちゃんしっかり頑張れよ」

「桃子はここで兄ちゃんが帰ってくるまで待ってるんだぞ。変な人についていったら駄目だぞ」

 その声は聞こえていない。

 桃子は、すでに公園の中に走り出していた。

「ちか姉ちゃん、けっとう、けっとう」

 桃子は三平の妹の千佳子とよく遊んでもらっていた。家が比較的近いからだ。

「うちの兄ちゃんが、けっとうするんだ」

「けっとう?」

「うん」

「けっとう……ってどういう意味?」

「しらん」

 

 空が赤く染まり、公園の緑が光を反射して、ところどころに虹を作っていた。

 菅野芳治は複雑な心境だった。

 桃子を可愛がってくれている千佳子の兄と決闘をするのだから。

「売られた喧嘩は買うしかない」

 目をきりりと見据え、ぐっと足に力を入れて歩きだした。その姿は小学生とは思えないほど逞しく歩く力は地を抜くのではないかと錯覚するほど力強い。

 まさに異次元の偉丈夫いじょうぶであった。


 夕刻のたそがれ川の川原。


 妙に烈風が草を撫でていく。

 人影が少ない橋のたもとに青柳三平は立っていた。その横で定信義市は心配そうだ。

「義一。手出しは無用だ」

「何、いきがってんだよ。あんな奴、相手にすんなって……」

「そうもいかん」

「桂木さんは転校して、その場にはいなかったのだし、つまらん思い込みに付き合ってられん」

「今日こそ菅野の根性を叩きのめしてやる」

 三平は決して強くは見えない。どっちかと言えば貧弱な部類に入る。そんな三平が両の手を構えた。

 功夫の構えである。

「三平、大丈夫か……その空手?」

 定信義市には、それが、いかにも頼りなげに見えた。

「空手じゃないって言ってんだろう……叔父さんがつくり出した日本流功夫カンフーだよ」

「なんて名前だった。その拳法」

「……功夫だって!」 

 三平は空間にゆるやかに大きく文字を書く。

 両足は大また開きで動かず、右手を筆のようにゆっくり動かした。左手は右手を守りながら、同じような流れを作る。

 じれったいぐらいにゆっくりだ。

 同時に手の動きにあわせ、風の音が聞こえる。それは三平の口から無言で吐き出される、ひと言、ひと言が風の音になった。

 古池や かわずとびこむ 水の音

 三平の口から出た風の音が松尾芭蕉まつおばしょうの俳句の一首であると定信義市には、わかる訳がなかった。

 否……誰一人として分からない。おそらく三平の青柳三太夫あおやぎさんだゆう師範を除いては……

 ただ、妙に気持ちが平たくなり、この世から音が消えたのではないかと思うほど、静かになって行くのがわかっただけだ。

 水の音だけが聞こえた。

 最後に三平は両足に力をいれ、息を吐き出し両手を前に出して止めた。

 そして、師匠がそうしているのだろう。

 大きな声で見栄を切った。

「名づけて……俳諧連歌芭蕉拳はいかいれんかばしょうけん!」

 一瞬の静寂が訪れ、直ぐに定信義市が笑いだした。

「芭蕉拳……名前はカッコええけど、強いのかその功夫……」

「この功夫は相手に外傷を負わすのではない。そういう意味では強いとはいえない。内なるところにダメージを与える」

「内なるところってなんだ?」

「その辺はようわからん。相手の気持ちにえぐるような一撃だ」

「あの菅野は化け物だからな……あんな奴と喧嘩してもつまらん」

「師匠には喧嘩ではつかうなと言われている。ただこの場合は喧嘩ではない。桂木美鈴かつらぎみすずの名誉のための戦いなのだ」

「桂木の為といわれたら、三平ばかりに良い格好をさせてられん。俺もやる」

「手出しは無用だ。今日は僕が撒いたことだから自分で始末する」

 三平の体が定信義市には大きく逞しく見えた。

 それも束の間だった。

 定信義市の視線の先には仲間を引き連れた、でっかい影が風に逆らって進んでくる。

 それを見た時、逞しく見えた三平の姿が、波にあらわれた砂絵のようにもろくも崩れ去っていった。

 さらさらと砂をはらい、川からの風が水を含んで流れていった。

 三平の整えられた髪の毛が乱れて、眼鏡越しの目が西日を反射して細くなった。

 しかし、青柳三平自身は決して崩れ去ってはいなかった。

 向かってくる菅野に向かって、正々堂々おくすることなく対峙たいじした。




 青柳三平の功夫がベールを脱いだ。

 俳諧連歌芭蕉拳……。

 芭蕉が忍びの者であったという仮説。

 その言葉がもつ謎の部分。

 

 ある俳句を聞くと、なぜか気持ちが落ち着くのです。

 ……。

 読んでいただいて有難うございました。

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