16 そこに、道あり
翌朝、当たり前のように青柳三平は小学校に行った。
教室には、いつもと同じように、後ろのガラス戸を開けて入った。
すでに何人かが登校していた。一人で机に座っていたり、四、五人集まって話をしていたり……。
ここまでは、いつもと同じ光景だった。
違ったのは三平が教室に入ってくるなり、一部の視線が三平に向いて、ぱらぱらと拍手がおこったことだ。
一瞬、何事だろうと立ち止まった三平は、黒板いっぱいに書かれている落書きを見て頭に血が上った。
おなじみの大きな傘の絵に、桂木美鈴と青柳三平と文字が右と左に並んでいた。
昨日の事を見ていた、クラスの誰かが書いたものに違いなかった。
三平は、そのまま黒板まで歩いていくと、黒板消しがない。
青柳三平の顔が険しくなった。
背中に、薄ら笑いの視線を感じながら……俺は男だ。つまらん諍いはしない。三平はぐっと唇を噛んだ。
黒板消しが無いので仕方なく、三平は自分の手で黒板の落書きを消しだした。
高いところは飛び跳ねて消した。
こんな高いところに手が届くのは、このクラスでは二人しかいなかった。
学級委員の菅野芳治と山本和子先生である。しかし菅野の姿は教室にはなかった。その仲間がニヤニヤ三平を見つめているだけだ。
三平の手が白墨で真っ白になった。横を見たら古室由香里がニッコリ立っていた。そして三平と同じように手で黒板の落書きを消していた。
青柳三平は無表情だった。
黒板を消し終わって、自分の席に戻ろうとした三平と由香里に口笛が飛んだ。
「色男!」誰かが叫んだ。
三平は声の方を見た。
「気にしない、気にしない。ひがんでいるのよ」
由香里が小声でささやいた。
三平は気を取り直して席に歩き出した。その時、三平の足に座っている男の足がひっかかった。菅野の仲間の細川三喜男だった。三平はつんのめるように前に転んでいた。
「ごめんごめん」
細川三喜男は頭をかいて謝っていた。
わざと足を出したのは分かっていた。ゆっくり起き上がると三平は無言で一句つぶやいた。
『古池や……蛙飛びこむ』
自らにあびせる一撃である。これは三平の功夫の大技であった。それで心を落ち着かせるのだ。
そして何事もなかったように、ランドセルを肩から外し席に着こうとした。
椅子の背もたれに手をやって椅子を引き出すと、座るところに、どうやら桂木美鈴らしい少女の裸の絵がテープで貼り付けてあった。
下らんことをする連中だ。そう思っても(俺は男だ。つまらんことで怒らない)
自ら受ける一撃を、何度も、何度も頭の中で繰り返し呟いていた。
その時、学級委員の菅野芳治が入ってきた。
頭の良さは群を抜いていた。テストはどの科目もほとんど百点だった。
相撲をとっても一番強かった。
クラスの横綱、四股名は菅野山。
担任の山本先生も一目おくほどの存在だった。しかし学級委員と言っても悪い連中に担がれてなったので、元々やる気がない。
副学級委員の外村雅代が学級委員みたいなものだった。
大柄な菅野芳治はランドセルが小さく見える。
ランドセルを肩からはずすと自分の席にほうり投げた。そして自分の席で立っていた青柳三平をにらみつけた。
いわゆる、ガンをとばすしたのである。
三平も菅野の視線を受けた。
その瞬間、教室の中はシーンと静まりかえった。
菅野の視線を受けたものの、菅野がなぜこんなことをするのか、三平はその理由が分からなかった。
(昨日のことが原因だったら……桂木美鈴の車を追った事が理由なら……菅野は桂木美鈴のことを……?)
定信義市が教室に入ってきたのはそんな時だった。三平の前の席が定信義市の席だった。
「おはようございます」
定信義市は大きな声で教室に入ってきた。
別にいつもと変わらない。
ざわついた教室。
静かに机に座ってチャイムが鳴るのを待つ者。
かたまって雑談する者。
古室由香里の複雑な視線を感じるまで、定信義市は変わらぬ顔だった。
自分の席まで来ると「おっす」三平に言った。
三平は一声返して黙った。
自分の席を見つめたまま座ろうとしない三平。
定信義市は三平の目線の先を見ようと、身を乗り出した。
その目に、飛び込んできたのは裸の少女の絵だった。
「なんだ! この下手な絵は……」ひとこと出た。
その声は委員長の菅野の耳に入らないわけがなかった。菅野は三平を睨んでいた目を定信義市に移した。
「下手って?……おまえ桂木の裸、見たことあんのか?」
菅野は子供のわりには低い声だ。さらに、ドスをきかせた一言に周りの何人かが、クスクス笑い出した。
「見たことあるから、そんなことが言えるんじゃ」
細川三喜男が口をはさんだ。
「これ、桂木の絵か……」
定信義市があきれた調子で返した。
「家が近いから一緒に風呂にも入ったんだろ。もしかして抱き合ってキスしたりして」
菅野の横ででっぷりと太った岩井努がはやす。
菅野が絡んでいるのに気がついて、定信義市は、まずい状況になったと思ったが、なぜか意固地になっていた。
「……」定信義市は三平を見た。三平は目で合図をして、椅子の絵をはぎ取り自分の鞄に入れた。
「記念に貰っとくよ」
チャイムが鳴った。
チャイムが鳴ると同時に先生が教室に入ってきた。
その日、一日。
定信義市と青柳三平は無口な少年になっていた。
放課後、三平は仲間に囲まれている菅野の机に近づいていった。その手には帳面を破いて三つ折りにしたものを握っていた。
それを三平は菅野の前に差し出した。
菅野はそれを受け取ると目を丸くした。そして鼻の奥から声を出した。
「果たし状……?」
「そうだ! 必ず来いよ」
そう言うなり、三平はその場を早足に去っていった。
後から菅野以下、仲間たちの嘲笑にも似た馬鹿笑いが聞こえていた。
定信義市は決意を秘めた三平の表情に気おされたのか、三平が一人で教室を出るのを見ていただけだった。
菅野はその果たし状をその場で広げて見せた。
「菅野芳治殿。夕刻、たそがれ川の川原にて待つ。青柳三平」
血祭りに上げてやるの意味をこめて、菅野芳治殿と赤文字で書かれてあった。
「殿だってよ……」
「青柳の顔が引きつってたよな」
定信義市は、その横を知らぬ顔で行き過ぎようとした。それをチラと見た菅野は机に足を放りだしたまま、定信義市の首を捕まえ耳元で小声で息巻く。
「青柳から果たし状が来た。夕刻、たそがれ川の川原だ。定信……助っ人に来てもかまわんぜ」
首にまとわりついた菅野の手を振りほどいて、定信義市はニヤと笑ってその場を逃げ出した。
菅野芳治に叩きつけられた果たし状。
はたして、三平の功夫がベールを脱ぐ!
お読みいただいて有難うございました。