15 やさしく、白き
突然走りだした兄、三平に驚いた妹の千佳子も、その後を追いかけたが、直ぐに転んでしまって泣きべそをかいた。
三平は走っていた。
由香里の前を通ったときも見向きもせずに「俺は男だ…」ぶつぶつ呟いて走り続けた。
飛び出した自転車が急ブレーキをかけた。
ゴミ箱の横の植え込みで居眠りしていた猫が、驚いたように目を開けあとづさった。
それでも三平は走った。
定信義一も由香里も、転んだ千佳子も、遅れて三平の後を必死で走っていた。
「待てよ! 三平」
青柳三平には定信義市の声なんか聞こえてなかった。
足はもつれても顔を左右に振り、大きな口を開けて全力で走った。
「どうしたの? 三平ちゃん……」
買い物かごを持った近所のおばさんが声をかけても、荒い息遣いが聞こえるだけだった。
三平は走った。
そしてゆっくり住宅街を走る美鈴の乗った車が見えた。
それでも三平は走った。
ブロックからはみ出した庭木の枝で休んでいた雀が驚いて飛び立った。
同時に、三平の足も止まった。
その前には、信号待ちをしている桂木美鈴の乗った車が見えていた。三平はその車に向かって大きな声で叫んだ。
「元気でな! きっと学校へ戻って来いよ。待ってるからな!」
三平の声が聞こえたのだろう……車の後部座席に座っていた美鈴が窓から顔を出して細い手を振った。
そこに遅れて、定信義市と由香里と泣きべそをかいた千佳子が追い付いて来た。
息をきらしながら見つめる四人には、車の窓から見える美鈴の白い手が、遠い世界の出来事のように思えたのだった。
(さようなら……)
定信義一は心の中でつぶやいた。
そして、横にいる三平を見た。
その目が見ていたのは紛れもなく桂木美鈴の手だった。
蝶のような舞う白い手だった。
そんな三平のことを、学級委員の菅野芳治が口を歪めて眺めていたのを、定信義市も三平自身も知るはずがなかった。
三平は桂木美鈴と別れたあと、家に帰って二階の自分の部屋に閉じこもった。
夕食にも下りてこない三平を心配して母は千佳子に言った。
「お兄ちゃんどうしたの?」
二つ年下の妹の千佳子はへらへら笑うばかりだった。
「お兄ちゃんも年頃だから」
意味深の千佳子の顔を見ながら母は怪訝な表情をした。
「年頃ってどういうこと?」
「それは言えない。男と女の秘密は守るから」
それは、三平と千佳子の秘密だった。秘密を持つことは楽しかった。
あの時、兄の三平が桂木美鈴の車を追って走ったのを、きっと彼女が好きなのだと思っていた。
「いいか、今のことは絶対の秘密だぞ。……男の約束だ」
三平は帰り道、千佳子に約束をした。
「私は女よ」
千佳子はニヤニヤしながらも兄、三平の想いを小さな胸にしまおうと思っていた。
「分かった。男と女の約束だ」
「指きりげんまん……」
千佳子は三平と指切りをした。
三平が千佳子の小さな小指を見た時、車から見えた美鈴の白くて細い手を思い出していた。
春の夕暮れの、まだ冷たい風が幼い兄妹に上を吹き抜けて行く。
前を歩く兄を、小走りで追いかける千佳子。
それを何度も繰り返す。
佳子の冷たい手は、いつしか三平の手を握っていた。
「お兄ちゃん、あの子のこと、好きなの」
千佳子はからかうように言った。
「そんなんじゃない」三平は顔を赤くしていた。
「お兄ちゃんが、千佳の手をきつく握ったでしょう」
「別にきつく握ったんじゃない」
「そんなことはいいけど、その時、考えたの」
「何を?」
「私の手の痛みなんか、お兄ちゃんの心の痛さに比べれば我慢できるって。だから痛くても我慢したの」
「ばか! なに言ってんだ。子供のくせに」
「きっと、好きなんだなって」
千佳子は三平の顔を笑いをこらえながら覗き込んだ。
「うるさいな! もう会えなくなるからだ」
三平は千佳子の手を離し、大股で歩きだした。
「何で、会えなくなるの?」
小走りで後を追いながら千佳子は言った。
「遠い所に行っちゃうんだよ」
「遠い所って?」
「歩いて行けないところ」
「自転車でもいけないところなの?」
「海を越えていくんだ」
「千佳子、海ってあんまり見たこと無いよ」
千佳子は困った顔をした。
「海は広いぞ、大きいぞ」
三平は両手を広げて歌を歌った。
大きな影が踊ったら、小さな影が笑った。
千佳子はあまり知らない海を想像した。
「きっとそこは天国ね」
幼い千佳子の何気ない言葉だった。
「天国じゃない!」
三平は千佳子を睨んで声を荒げた。
驚いた千佳子は泣きそうな顔をして兄、三平を見た。
三平は、すぐに千佳子の肩を抱いた。
「ごめんな。千佳」
千佳子は泣きべそをかきながら三平に抱かれていた。
「でも、そこは天国じゃないんだ。……天国は死んだ人が行くところだから」
「死なないと天国にはいけないの?」つぶやくような泣き声だった。
「そうさ」
「生きてる人は天国にはいけないの」
「生きてる人は天国にはいけないんだ。天国には行けないけど、天国に近いところにはいけるよ」
「ほんと!それはどこにあるの?」
「それは……自分で見つけるんだ」
「うん。でもお兄ちゃん……あとで教えてね。千佳はまだ小さいから見つけられないでしょう」
そこには笑顔の千佳子がいた。
三平は、なんとなく桂木美鈴の病気が直らない病気じゃないかと想像していた。
だから千佳子が言った、きっとそこは天国ね、の言葉に三平の幼い感情が噴出してしまった。
それは、まぎれもなく三平が桂木美鈴を意識しているということだった。
かげる夕日が三平と千佳子の二つの小さな影を、いつまでも映し続けていた。
男、三平の想いは届いたのだろうか……。
やさしく白き手をのべて……二人の前から桂木美鈴は去っていった。
読んでいただいて有難うございました。