12 胸に、ひそめる
青柳三平が教室のドアを開けて、いつものように自分の席に歩み出した。
三平の前の席が定信義一の席で、右隣の席が桂木美鈴の席だった。
いつもなら誰もいない桂木美鈴の席に人が座っていた。そこに由香里と同級生の鈴木早苗が寄り添っていた。
教室で初めてみる美鈴の姿であった。
三平は気づかぬ素振りで自分の席に着いた。
由香里がちらっと三平をみたが三平は「おはよう」と声を出しただけで、ことさら美鈴がいることには気がつかないふりをした。
それが三平の照れなのか、優しさなのかはわからない。
定信義一はそれから、時をおかず教室に顔を出した。
自分の席に着いてランドセルを置くと驚きを隠せず、横にいる美鈴に声をかけた。
「おはよう……」
美鈴が返事をする前に古室由香里の言葉が飛び出した。
「おはよう、さだのぶ君」
由香里の声はうわの空。
定信義市は昨日、担任の山本和子先生が下校の時に言っていた言葉を思い出していた。
「明日の一時限目は予定を変更してクラス会を開きます」
先生の言葉と桂木美鈴が初めて登校してきたのと、何か関係があるのだろうかと後ろの青柳三平を振り返った。
三平はそれに気付かず、真っ直ぐ見つめる瞳には、なぜか桂木美鈴の姿が映っていた。
学級委員の菅野芳治も、しばらくして教室に入ってきた。
由香里は小声で美鈴に言った。
「あいつは悪だから気をつけて……」
そういわれれば菅野も立つ瀬がない。
それに知らずに自分の席に腰を下ろすと、すぐに仲間が近づいてくる。
「転校生か……?」
すぐに菅野が聞いた。
美鈴のことであった。
「病気でこれなかった桂木って子らしい……」
「そうか」
菅野は由香里の陰で見えなかったが、かすかにのぞいた美鈴の横顔に目が飛び出しそうになった。
「かわいい子じゃん」
「でしょ」
白い服に身をつつんだ美鈴は、そこだけ白い空気が流れていると錯覚を起こすほど清楚だった。
チャイムが鳴って山本先生が入ってきた。
全員立ち上がり挨拶が終わってクラス会が始まった。
最初は自己紹介からはじまり、皆で歌を歌ったり、しりとりをしたり楽しい一時間が過ぎていった。
そしてチャイムが鳴る少し前になって、先生は言った。
「今日、初めて桂木美鈴さんが学校に来ることができました。この中には初めて桂木さんに会った人もいると思います。本当は……これからも仲良くしてあげて下さいね……とお願いするところなのですが、桂木さんは一時限目が終わったら病院に行く為に帰らなければなりません。そして……このクラスに来るのも今日が最後になります」
教室に小さなざわめきがおこった。
定信義市は後ろの三平を振り返った。
三平はうつむきかげんだった。義市が振り返ったのに気がつかないのか、右手で鉛筆を回していた。
美鈴も前を見ていなかった。
その目が何を見ていたのか、なにを考えていたのかは誰も知らない。
たぶん、美鈴すら……。
山本先生の次の言葉をクラスの皆は待っていた。
「明日は……転校のために遠い北海道に行かなければならないのです。桂木美鈴さんは、あまり学校へ来れなかったけど、このクラスに桂木美鈴という生徒がいたことを皆は決して忘れないでしょう……先生も絶対忘れません」
美鈴に向けた先生の優しさに満ちた言葉だった。
それに応えて、クラス仲間の声が教室を巡った。
「絶対忘れませーん」
「何時までも覚えてるよ」
「俺のことも忘れるなよ!」
皆の声に桂木美鈴は嬉しくて顔を朱に染めていた。
先生の手招きに応じて立ち上がると、うつむきながら前に出て行った。
美鈴はみんなの前にたった時、喋ろうとしていた言葉をすっかり忘れてしまった。
それを察したのか先生が桂木美鈴の肩に手をおいた。
「これで桂木美鈴さんには、このクラスの思い出ができました。とっても短い時間でしたが、とても大切な時間です」
先生は桂木美鈴の顔を見て、ニッコリ微笑んだ。
美鈴も先生の励ましに小さな声でこたえた。
「クラスの皆さん、ほんとうにありがとう……今日のことは何時までも忘れません」
その声に定信義市は美鈴と過ごした短い日々を思い出していた。
隠れ家へ行ったことや、金の折り鶴のことも……。
三平は美鈴との接点はほとんど無かったが、初めて見た、玄関脇で立っていた美鈴の姿が瞼に残っていた。
先生に導かれて教室を出て行く桂木美鈴にクラスの皆から声が飛んだ。
「元気でな!」
「さよなら。病気なおせよ」
「手紙頂戴ね」
美鈴は誰もいない学校の廊下に出た。
先生も続いて出てきた。
開いた窓にはクラスメートの顔もあった。
その廊下には美鈴の母親が待っていた。
美鈴の母は頭を下げたまま、手に持っていたハンカチで涙をぬぐっていた。
母親のところまで来た桂木美鈴はクラスの教室を振り返って手を振った。
「バイバイ」
教室に戻った定信義市と三平は窓から見える運動場の二つの影を眺めていた。
母に寄り添う美鈴は、きっと泣いているに違いないと定信義市は思った。
定信義市も涙こそ、こらえていたが、そこに誰もいなかったら憚らず泣いたに違いなかった。
三平は鼻をすすりあげて、眼鏡をとって拭きだした。
クラス委員長の菅野も何時になく静かだった。
校門の所に車が一台、止まっているのが見えた。
窓から皆が手を振った。
桂木美鈴も手を振った。
一時限目の終了のチャイムが鳴るのと、車が走り出したのが、ほぼ同時だった。
別れは突然やってきます。
それは新たな出会いの予感を秘めながら……。
読んでくださって有難うございました。