10 まだ、夢のまの
青柳三平は授業が終わり、その日は、そのまま功夫道場へ向かった。
途中に桂木美鈴の家の前を通った。
垣根越しに見える庭のガラス戸に目を動かす。
ガラス戸に反射する光と垣根の緑だけが三平の目に映った。
桂木美鈴の大きな瞳を見ることはかなわなかった。
男、三平……思い出すたび、ため息がでた。
桂木美鈴を好きになったのではない。
可愛いと思っただけだ。
ため息ついでに唇をかむ。
噛んだ拍子に目をつぶると、足元の小石に気付かず、けつまずいて転びそうになった。
「たわけ!」
大声が三平の体にぶっつかる。
目を見開いて前をみた。そこには髭の男が白い作業服のようなものを着て仁王立ちだ。
三平通う功夫道場の師範、青柳三太夫であった。
「師匠!」
「ふらふら歩いては前が見えまいが……」
「不覚でした」
「わかればいい。とかくこの世は……」
「ところで師匠。今日は修行の日では」
「うん、そうなのじゃが、今朝、おまえの母ちゃんがきて、勉強に支障があるから止めさせてくれと言ってきよった」
「え! もうやると決めたのに」
「知らんのじゃよ。この拳法が勉強になることを」
「勉強になりますか?」
三平が聞き返したとき、道の彼方から人影が見えた。
師匠はあわてて三平に目配せをして横の路地に入っていった。
「道場で修行をするのはしばらくよそう。おまえ塾に行っとるそうじゃな」
「週に三回」
「何時からじゃ」
「六時から九時まで」
「塾の帰りに神社があるじゃろう。しばらくは、そこで三十分だけ修行をする」
「はい! わかりました」
三平は路地の板塀が振動するのではないかと思えるほどの大きな声を出した。
「声がでかい」
「返事は大きな声で……と確か師匠の教え」
「臨機応変という言葉を知らんのか」
時すでに遅し!
路地の入り口で三平の母親が目をつり上げていた。
「やれうつな、蠅が手を打つ、足を打つ」
師匠は静かに瞑そうした。
「師匠それは……」
「小林一茶だ」
「それは昨日、国語の授業で習った!」
三平の声とともに母の腕が伸びてきて、瞬く間に路地から引きずり出された。
「うちの子は一流高校から一流大学。一流会社に入って一流の暮らしをさせるのよ。そのためにはしっかり勉強をしてもらわないと。もう二度と三平には近づかないで」
師匠に、それは強烈な一撃が飛び込んできた。
路地で静かに瞑そうする一人の男。
「鳴かぬなら、鳴くまでまとう、ほととぎす……誰の句じゃったかいの……」
そのつぶやきは微かな風を呼んだ。
「何が一流じゃい…… 実に下らん! だが……所詮、負け犬の遠吠えにしか聞こえんところが、わが功夫の絶技、枯淡の境地だ」
路地に吹き抜ける隙間風は青柳三太夫師範の大きく開けた無防備な股間を通り、ブロックの上の植木鉢に突き刺した風車を回転させながら、路地を吹き通っていった。
例によって定信義市は桂木美鈴に連絡帳を持ってやってきた。
その日は体調が良いのか少し歩きましょうと、近くの公園へ並んで歩き出した。
家から五分ほど歩くと、大きな鯉がいる緑地公園に着いた。
桂木美鈴はあまり話しをしない定信義市に変わって、学校の事や友達のことなど話しかけてきた。
長く学校に出席できない美鈴のために、定信義市も知っている限りのことを話した。
池の水面には木が影を作り、泳ぐ魚が波紋を流す。
小声で話す人の声が、静寂を演出していた。
池の周りは金網で囲まれ、二人は金網から覗き込むように池の鯉を見ていた。
「池の鯉はいいわね。自由で……」
定信義市は桂木美鈴の言葉に、どう答えれば良いのか思案していた。
「人目を気にせずいろんな所にいきたいわ。ほら、よく隠れ家なんか作ったりして……」
桂木美鈴の言葉に定信義市は何かを思い出して目を輝かせた。
「隠れ家かな。あれ……三平と二人しか知らない場所があるけど。今度つれていってやるよ」
「行きたいわ。近いの?」
「川の橋の下……歩いたら十五分はかかるよ」
それは定信義市と三平が偶然見つけた場所だった。時々、二人でその秘密の場所で遊ぶことがあった。
「大丈夫。最近調子がいいのよ。この分だと学校にも通えるかも知れないってお母さんが言っていたもの」
「少し前は元気なかったのに」
「少し前って?」
「折り鶴を貰った日の事だよ。あの日はしおれていたから」
「定信君に元気を貰ったから……」
珍しく微笑んだ桂木美鈴は白い頬を赤く染めた。
木立の中の二人は光と影をまとい、キラキラ光る水面を見つめていた。
曲がりくねった遊歩道を人それぞれの思いを抱き通り過ぎていく。
こんなに長い時間を桂木美鈴と過ごしたことなど定信義市はなかった。
その長い時間が美鈴との距離を、少しずつだが短くしてくれるのが嬉しかった。
美鈴も定信義市との過ごす時間を楽しみにしていた。
定信義市は横にいる桂木美鈴の存在を確かなものと感じかけていた。
だから、次の桂木美鈴の言葉は以外だった。
「私……今度転校するかもしれない」
突然の言葉だった。
まだはっきり決まったわけではない。
病気を治療するために最善の方法を家族が考えてくれていると言う事だった。
「転校?」
オウム返しだった。それくらい、定信義市には頭が真っ白になるほどの衝撃だった。
転校なんか嘘だろう……定信義市の、そうなって欲しい気持ちが、それを懸命に否定する。
義市は横を向いて桂木美鈴の横顔を見た。
「転校したら、さみしい……」桂木美鈴は定信義市に顔を向けた。
「おれ……?」
「わたし……」
定信義市は近くに桂木美鈴の息遣いを感じていた。
「今度、秘密の隠れ家を教えてね」
「わかった……」
「約束よ」
「うん」
桂木美鈴の首に巻かれた絹のスカーフの浅黄色が定信義市の黒い眼に焼きついた。
秘密の隠れ家で遊んだ記憶は誰でもあるのではないでしょうか……。
最近の都会ではもう無理かな……。
読んでいただき有難うございました。