表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
金色の空  作者: 古流
10/79

9 とほく、きこゆる

「入って」

 定信義市さだのぶぎいちは由香里について中に入った。

 やはり、この部屋からピアノの音は聞こえていた。定信義市が中に入ってもピアノの音は鳴り続けた。

「先生! 東条とうじょう先生」

 由香里の声にピアノはぴたりと止んだ。

「紹介するわ。私の同級生の定信義市くん。イチゴを持ってきてくれたの」

「同級生の定信くん……」

 ピアノの先生は椅子から立ち上がり前の定信義市を見た。

「定信義市と言います」

 ぺこりと頭を下げた。間違いなく道を聞かれた人だった。

 前と違って花柄の水色のワンピースは清潔感を漂わせていた。

 どんな表情をすればいいか分からないから、顔が見えないように長めに頭を下げていた。

「定信くん。私のピアノの先生の東条先生よ」

 由香里の声はもう定信義市にはどうでも良かった。

「よろしくね」

 定信義市はイチゴの入った箱を両手に抱えたまま、かぐわしい声に包まれていた。

「いつまでイチゴの箱を持ってるのよ。でもありがとう」

 由香里が定信義市からイチゴの箱を受け取った。

「ちょっと待ってて、お母さんに渡してくるから」

 由香里が足早に出て行った。

 はからずも、東条紗枝と二人きりになった定信義市は罰が悪そうに畏まったまま立ち尽くしていた。

 その前には東条紗枝がニッコリ微笑んでいた。

「あの時はありがとう……」

「あ、いえ」

 定信義市は何を言えばいいのか分からないから、頷くしかなかった。

 由香里が戻ってくるのを内心ドキドキしながら待っていた。そんなことはかまわず、東条紗枝はモナリザなみに謎めいた微笑で定信義市を見つめていた。

「今の曲はね、ショパンの曲よ。定信くんはピアノ興味なかった?」

「あまり、知らないです」

「そうよね。サッカーとか野球とかの方がいいよね。男の子、だもんね」

 定信義市は由香里が早く戻ってこないかとチラチラとドアを気にしていた。

「由香里ちゃんと仲がいいのね。羨ましいわ」

 東条紗枝はつったたままの定信義市の背中を軽く押して部屋のソファーに座らせた。背中を押された時、今まで感じなかった感覚が首筋を走った。

「立ったままじゃ疲れるでしょう」

 ソファーに身を沈めた定信義市は背中が思ったより沈み込んだのに驚いて足を上に跳ね上げてしまった。

 それを見ていた東条紗枝はおかしそうに笑った。

「ごめんなさい。私も最初座った時、そんな風になったのよ」

 東条紗枝は定信義市のソファーとはテーブルを挟んだ前に同じように座った。

 その時、ドアが開いて由香里がイチゴの入った皿を持って入ってきた。


 時計の長針が15度ほど傾いた。

 定信義市はしばらく、そこに居て由香里のピアノの練習の邪魔になったらいけないと立ち上がった。

 玄関を出る時、廊下の奥に由香里の母が顔を見せた。

 定信義市が「失礼しました」と挨拶をしたが、そこの照明が暗いせいか由香里の母の笑顔もなぜか暗く感じた。

 そういえば、あまり由香里の母を見たことがなかったことに、今更ながら気がついた。 


 玄関を出て庭の通路を通って門まで由香里が送ってきた。

「定信義市君のために弾くから……帰り道に聞いて帰ってね」

 由香里は定信義市のお尻をポーン叩いて、今度は駆け足で家に入っていった。

 定信義市は門から出たところで振り返り、由香里が入っていった玄関を見つめていた。

 その横の部屋のカーテンが揺れて、カーテンの隙間から東条紗枝がこっちを見ているのを定信義市は気がついた。

 ぼやけてよく見えなかったが、ガラス越しに手を振っているように思えたから、定信義市も無意識に手を振っていた。


 その不思議な無意識の正体がなにか、何となく分かりかけてきた定信義市だった。

 それはアイドルに憧れたり、女優に憧れたりする感覚とは少し違うと思った。

 

 

 門を出て、塀に沿って歩いてゆく定信義市の耳に、由香里が弾くピアノの音楽が聞こえてきた。

 それは小学4年生が弾いてるとは思えないほどの鮮やかなピアノだと思った

 ただ由香里の顔を目に浮かべて「ピアノは上手いが、天は二物をあたえず、か‥‥」

 要らぬ一言が口をついた。


 そういう定信義市は鈍く光るような目を持った優しい顔立ちの持ち主だった。

 不器用でぶっきらぼうな性格だが、その目が人を惹きつけた。


 定信義市が歩くにつれてピアノの音もだんだん遠くなっていった。


「今の曲はね、ショパンの曲よ」

 東条紗枝の声が蘇ってきた。

 曲名は知らなかったが、その勇壮なメロディーは定信義市の頭に刻まれた。


 ダダダーンダダン、ダダダダダダダダダダダンタンタンタンタン‥‥。


 歩く定信義市の口から何度ももれて、その手はピアノを弾いているみたいに胸の前で踊っていた。

 もっとも、定信義市の頭の中でピアノを弾いているのは、由香里ではなく東条紗枝であった……。


 東条紗枝との再会


 なんのためらいもいらない、そのまたたきの時


 見上げた空から、光とともに落ちてくる雫にも似て、濡れた手のひらをすべり落ちる。


 読んでくださって有難うございます。




  

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ