第3話 裏庭の池掃除で魔法魚復活
――朝の清掃ラウンド三日目。
屋敷の裏庭へ足を踏み入れた瞬間、鼻をつく悪臭が風に乗って襲ってきた。
「……ん?」
思わず足を止める。どこかで嗅いだことがある。これは――停滞した水と腐敗した藻の臭いだ。
臭いの源を辿れば、小さな装飾池。いや、“池だった何か”と言った方が正しい。
水面は濃い緑色に濁り、光を反射するはずの場所は藻と枯葉のじゅうたんに覆われている。かすかに泡がプクプクと湧き、見たくない想像をかき立てる。
「お嬢様、それ……」と、後ろからマーサが顔をしかめて言った。
「何十年も放置されてます。庭師も“無理です”って諦めた場所でして」
別の侍女も肩をすくめる。「屋敷主も見向きもしません。……臭うでしょう?」
私は眉間に皺を寄せた。
衛生的に最悪。これは生き物が暮らす水ではないし、人が暮らす環境でもない。
「……」
背筋を正す。
――戦闘開始だ。
「用具を持て。ここから先は掃除の戦場だ」
その瞬間、マーサをはじめ侍女たちの顔に、微妙な絶望の色が浮かんだ。
だが私の耳には、もはや悪臭以外、何も届いていなかった。
裏庭の池を前に、私は両手を腰に当てた。
「これより――池の大掃除を開始する!」
声が庭に響くやいなや、マーサが慌てて駆け寄ってきた。
「お、お嬢様! 池掃除は専門業者じゃないと……!」
「業者だと? そんなもの半年も待ってられるか」私は即答した。
「水の入れ替えと底の泥抜き、藻の除去は基本だ。それを今日やる」
呆然とする使用人たちを前に、私は手際よく指を動かす。
「――バケツ隊、侍女全員。ひたすら水を運べ」
「――網隊、庭師。藻と枯葉を片っ端からすくい出せ」
「――デッキブラシ隊、下働き。底が見えたら全力で磨け」
指示は一方的だが、反論の余地を与えない勢いがあった。
マーサは一瞬ため息をつき――気づけば、私の横で声を張り上げていた。
「バケツは二列! 運び終わったらすぐ次! 藻は枯葉と分けて捨てて!」
いつの間にか副リーダーの顔になり、動線まで仕切り始める。
侍女たちが慌ただしく走り出す様子を見て、私は心の中で小さく笑った。
(よし……この戦場、勝てる)
池の水をバケツ隊がひたすら運び出すたび、濁った緑色は少しずつ消え、やがて底から――黒い泥が、ぬるりと姿を現した。
「お、お嬢様、それ……触るんですか?」と誰かが声を震わせる。
私は答えず、スコップを手に取った。
一歩、泥の中へ足を踏み入れ――ザクッ。
腐敗臭とともに、何十年分かの沈殿物がすくい上げられる。
藻と枯葉、それに得体の知れないゴミの山が庭の一角に積み上がるたび、周囲から「うわ……」と漏れる。
だが私は意に介さず、低く宣言した。
「悪臭の元は有機物の腐敗だ。これを除去すれば、水は必ず蘇る」
おじさん時代の清掃理論を、ここぞとばかりに解説する。
有機物の分解過程、水質の再生サイクル、底泥の嫌気性菌の話――侍女たちは目を白黒させていたが、それでも作業の手は止めなかった。
最後の一塊を掘り出すと、井戸水隊が新鮮な水を注ぎ込み始める。
透明な流れが池に広がり、少しずつ濁りを押し流していく。
やがて底の石が見え、揺れる水面に空が映り込む。
私はスコップを置き、息をついた。
――蘇生の瞬間だ。
水面が澄み渡ったその瞬間――底の石影の間から、淡い蒼の光がふわりと浮かび上がった。
「……光ってる?」誰かが小さく呟く。
やがてそれは、ゆるやかに泳ぎ出す。
青銀の鱗が水の揺らぎを受けてきらめき、尾びれの一振りごとに小さな水泡が舞った。
「まさか……!」庭師が目を見開く。
「“蒼鱗の魔法魚”……!」侍女の一人が声を上げた。
それは、王家の象徴とされながら数十年前に絶滅したとされていた存在。
信じられない光景に、誰もが息を呑む。
魔法魚は一度、水面へ跳ね上がった。
滴が陽光を受けて虹色に輝き――その瞬間、池の周囲に植えられた花々が一斉に蕾を開いた。
色とりどりの花弁が、風に乗って庭を彩る。
「……きれい……」
驚きと歓声が重なり、屋敷の空気が一気に華やぐ。
私は濡れた手を拭いながら、ただ小さく鼻を鳴らした。
(ほらな……掃除は、奇跡も呼ぶんだ)
庭の奥から、規則正しい足音が近づいてきた。
振り向けば、陽光を背に立つレオン王子の姿――その視線は、澄み渡った池と蒼鱗の魔法魚に釘付けになっていた。
「……蒼鱗魚……」
その声には、普段の冷ややかな調子とは違う、わずかな震えが混じっている。
「まさか、生き残っていたとは……」
彼はゆっくりと池の縁に歩み寄り、しばし魚の軌跡を追い続けた。
やがて、こちらを振り返る。
「どうやって、この池を……?」
私は手にしたデッキブラシを軽く振りながら、事も無げに答えた。
「掃除をしただけですわ」
その一言に、王子の眉がわずかに跳ね、そしてふっと口元が緩む。
「……感謝する」
短く、しかし確かな温度を帯びた言葉。
――その瞬間。
「まただ……!」
「ほら見ろ、王子が笑ったぞ!」
背後で侍女や執事たちがざわつき始める。
私は肩をすくめつつ、心の中で小さくガッツポーズを取った。
(ふふ……この調子で、婚約破棄イベントまでに屋敷も王子の性格もピカピカにしてやる)
王子が去った後、侍女たちの間でざわめきが続く。
「……あの王子が、微笑んだ……」
「こんなこと、あり得るのかしら」
誰もが信じられない様子で囁く中、私は肩をすくめた。
(……掃除してたら、何かフラグが変わった?)
本来なら、この時期は王子の好感度は下降するだけのはず。
なのに、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった。
おかしい、だが確かに変化はあった。
しかし、私はすぐに考えるのをやめた。
掃除の優先順位は変えられない――次は温室の窓磨きだ。
「マーサ、バケツを二つ用意してくれ」
「はい、お嬢様!」
――戦いはまだ終わらない。
屋敷のあらゆる場所をピカピカにするまで、私の掃除魂は止まらないのだ。