大洪水後の大掃除
三日三晩続いた豪雨は、ついに王都を抱く大河の堤防を決壊させた。
茶色く濁った濁流が怒涛のごとく下町へ押し寄せ、家屋の一階を飲み込み、石畳の路地を泥水の川へと変える。
「逃げろー! 水が来るぞ!」
「子どもを抱いて! 急げ!」
避難を呼びかける声と共に、住民たちは必死に高台へ。幸い死傷者は少なかったが――残された町は見るも無惨だった。
家具は浮いては転び、食糧庫に保存していた穀物や干し肉は泥に浸かり、腐敗の兆しを見せ始める。
やがて水が引いた後には、ねっとりとした泥と、鼻を突く悪臭だけが残った。
「このままでは……疫病が広がりますぞ」
現場を確認した王国医師団の長は青ざめ、周囲にそう告げる。
「汚泥と残滓、湿気と悪臭。すべて感染症の温床だ……」
住民たちは疲れ切った表情で互いに顔を見合わせるしかなかった。
嵐を生き延びたはずが、今度は病に倒れるかもしれない――そんな不安が街を覆い始めていた。膝まで泥水に浸かりながら、ミランダは濁った路地をじっと見渡した。
倒れた樽、泥に沈む家具、漂う悪臭。避難所に集まった人々の不安げな顔が脳裏に焼きつく。
「……これは、単なる洪水被害ではありませんわね」
彼女はぐっと眉間に皺を寄せた。
「このまま放置すれば、必ず病が広がります。つまり――掃除の問題ですわ!」
突如として声を張り上げるミランダに、同行していた兵士や医師団は思わず息を呑む。
しかし、次の瞬間には彼女は決然とした笑みを浮かべ、指先を高く掲げた。
「王都ギルドに伝えて! 緊急清掃隊を編成いたします!
必要なのは勇気でも魔法でもなく、雑巾と石鹸と除菌ですわ!」
その言葉は泥に沈む町にこだました。
周囲の者たちは半信半疑ながらも、妙な説得力に胸を打たれる。
さらにミランダは濡れたスカートを払ってくるりと振り返る。
「王城にも援軍を要請します。兵士たちに剣を振るわせるより、モップを握らせる方が今は国のため!」
その堂々たる言葉に、場の空気が変わった。
人々の瞳に、諦めではなくわずかな希望が灯っていく。
――こうして、王都史上初の「清掃隊動員令」が発せられたのだった。王都ギルド本部にて。
集められた清掃隊、兵士、医師、そして避難してきた住民代表たちを前に、ミランダはすっと前に出た。
「皆さま、まずは落ち着いてくださいませ。洪水の被害は大きいですが、整理すれば必ず立ち直れます」
彼女の声は澄み渡り、泥と疲労に沈んだ空気を一瞬で払う。
ミランダは用意してきた板にチョークで大きく書き出した。
汚泥の除去
乾燥・排水の徹底
《ピュアヴィネガー》による殺菌
家具・物資の仕分け
井戸と水路の清掃
衛生教育の普及
「まず、泥を掻き出します。その後、魔法師の方々にお願いして風と火の魔法で乾燥。
残った湿気と雑菌は――《ピュアヴィネガー》で一掃ですわ!」
勢いよく板書を叩くと、住民たちから「おおっ」と声があがった。
続けて彼女は、泥にまみれた椅子を引きずり出してきて、手際よく分解しながら説明する。
「壊れた家具や道具は“再利用”か“廃棄”に振り分けます。目利きのギルド員に従って仕分けてください」
さらに、彼女は図解した井戸の絵を掲げた。
「井戸と水路は命の源。必ず最優先で掃除し、清浄化魔法と酢で殺菌します。安全な水なくして生活は戻りません!」
最後に、壇上に桶と水を用意すると、自ら袖をまくって見せる。
「ここからは衛生教育です。――皆さま、手を洗ってくださいませ。石鹸を使い、爪の間まで。
そして消毒、換気。この三つを守れば、病は寄せ付けません」
彼女の実演に合わせ、兵士や子どもたちも真似をし、会場に笑い声が広がる。
その光景を見て、ミランダは心の中で呟いた。
(これで王都は、必ず立ち直りますわ――掃除の力で!)王都・下町の大通り。
茶色い泥が膝まで積もり、瓦礫と家具があちこちに引っかかっている。
そんな惨状の中、先頭に立ったのは――
「皆さま、私に続いてくださいませ!」
長いドレスの裾をきゅっと結び、軍手代わりに革手袋をはめたミランダだった。
彼女は小柄な体で泥にずぶずぶと入り込み、シャベルを振るう。
「お、お嬢様自ら!?」
「ドレスで泥掃除なんて前代未聞だぞ……」
兵士と住民が目を丸くするが、ミランダは涼しい顔。
「掃除に身分も衣装も関係ありませんわ!」
その声に奮い立ち、ギルド員たちが次々と泥掻きを始める。
兵士は壊れた家具を運び出し、少年たちは桶で水を運んで道を洗い流した。
「ほら、こっちは《セイントダスター》で壁を拭って!」
ミランダが指示を飛ばすと、聖なる光を帯びた布がカビを一掃。
さらに《ピュアヴィネガー》を振り撒けば、鼻を突く悪臭がふっと消え、空気が軽くなる。
「すごい、空気が変わった!」
「これなら子どもを連れて帰れる……」
住民たちの顔に笑顔が戻り、やがて自ら箒や雑巾を手に取り始めた。
気づけば町中が総出で清掃に参加し、汗と笑い声があふれる。
「こりゃあ大掃除フェスだな!」
「泥も匂いも消えていくぞ!」
泥の匂いに混じって、活気と希望の熱気が町を包んでいた。
その光景を見て、ミランダは袖をまくり直し、胸を張る。
(そうですわ……掃除は孤独な戦いではなく、皆でやれば祭りになるのです!)大洪水から数週間――。
下町は、嘘のように穏やかさを取り戻していた。
「……驚いた。あれほど泥と汚物に覆われた街で、感染症が一例も出ていないとは」
王国医師団の長老が記録簿を閉じながら目を細める。
「薬でも魔法でもなく……“清潔の維持”こそ最高の予防だったのだな」
住民たちも、口々に言う。
「子どもたちが病気にならなかったのは、あの時のお嬢様の掃除のおかげだ」
「命を救ったのは剣でも盾でもなく……雑巾と酢だったんだな」
泥に沈んでいた王都の人々の心が、初めて“掃除”というものを誇りに思った瞬間だった。
そして王城の謁見の間。
玉座に座る王は、堂々と宣言した。
「ミランダ・フォン・ハーケンシュタイン。そなたの働きは我が王都を救った。
剣で竜を退けた者も英雄だが、泥と疫病を退けたそなたもまた“防疫の英雄”である!」
高らかな宣言とともに、王冠に輝く宝石のような褒賞が授けられる。
広間に集まった貴族や市民代表たちが一斉に拍手し、歓声がわき起こった。
ミランダは軽く会釈しながら、胸の奥で静かに思う。
(掃除は誰の目にも留まらない地味な営み……。ですが、命を守る大事な力なのですわ)
王都に響いた拍手は、いつまでも止まなかった。大掃除を終え、ようやく王都に平和が戻った頃。
ギルドの面々が休憩所で湯気の立つお茶をすすっていた。
そのとき、元気いっぱいの少年ギルド員が、屈託のない笑顔で口を開いた。
「ねえ! もし泥水をもう一回撒き戻したら、また大掃除できますね! 楽しいし、訓練にもなるし!」
場が一瞬で凍りつく。
茶を飲んでいた大人たちが盛大にむせた。
しかし当のミランダは、にっこりと微笑む。
「まあ、それも悪くありませんわね。非常時の練習にはちょうど良いですし」
その瞬間、周囲の大人たちは椅子から飛び上がった。
「「「二度とごめんだーーーっ!!!」」」
全員が両手を振って必死に否定する光景に、中庭が爆笑に包まれる。
ミランダはくすくす笑いながら、心の中で(やっぱり掃除は皆でやると楽しいですわね)とご満悦。
こうして、“洪水大掃除事件”は、英雄譚でありながらも笑い話として語り継がれていったのだった。




