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悪役令嬢ですが、破滅イベントよりホコリの方が気になります。  作者: 南蛇井


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王子、婚約解消を保留

――王宮、執務室。


アレクシス王子は窓辺に立ち、遠くの庭園を見下ろしていた。

机の上には、宰相が置いていった分厚い書類束。封蝋には他国の紋章が輝いている。


「……ミランダとの婚約を、見直すべきかもしれません」

低くつぶやくと、そばに控える宰相がうなずく。

「殿下。より有力な同盟国の姫との縁談が進めば、王国の立場はさらに強固になります。これは好機かと」


背後の別の貴族も口をそろえる。

「ミランダ嬢は確かに働き者ですが、政略の盤上では駒が違います」

「姫としては、少々……庶民的すぎる部分も」


アレクシスは、苦笑を漏らす。

(そういえば、初対面の頃からあの子は遠慮なく物を動かし、棚を整理し、床まで磨いていたな……)

貴族らしい気品よりも、雑巾片手の姿のほうが似合う婚約者。


「……まあ、性格が合わないのは確かだ」

そう軽く考えながら、アレクシスは机上の書類に視線を落とす。

このときの彼はまだ、自分が後でその言葉を後悔することになるとは、夢にも思っていなかった。――ミランダが城を離れて三日目。


アレクシス王子は、舞踏会用ホールを視察に訪れた。

……そして、思わず眉間に皺を寄せる。

床の隅に、光の加減でわかる薄い埃の膜。豪奢なシャンデリアの装飾に、蜘蛛の巣らしき糸が一本、きらりと揺れている。


「……昨日も掃除をしたはずだと報告を受けたが?」

側仕えの騎士は慌ててうつむき、「確認いたします!」と走って行った。


四日目。

昼食のテーブルにつけば、銀食器の並びが微妙にずれており、スープがぬるい。厨房では調味料の瓶が無造作に置かれ、下働きがバタバタ走り回っていた。


五日目。

執務室に入ると、机の上が書類の山。先週までは必要な書類が一瞬で見つかったのに、今日は探すだけで小一時間かかった。

(……何だ、この落差は)


六日目。

軽い頭痛と喉の違和感を覚えた王子は、執務を早めに切り上げた。

「なぜこんなに過ごしにくいんだ……?」とぼやくと、側近が困った顔で答える。


「殿下……それは、ミランダ様が常に掃除と整理を徹底しておられたからでございます。殿下のお部屋も、廊下も、厨房も……あの方が目を光らせていたのです」


王子は絶句した。

(……まさか、あの几帳面さがこれほど城の快適さを支えていたとは)

胸の奥で、何かが静かにざわめき始めた。――その夜、アレクシス王子は書斎の椅子に深く腰掛け、机の上のランプを見つめていた。

炎がゆらぎ、影が壁に揺れるたび、記憶もまた静かに蘇ってくる。


――あの舞踏会の夜。

舞台裏の床が鏡のように輝き、控室のカーペットには一片の埃もなかった。招いた隣国の王が「この城は清潔で、礼儀正しい」と笑顔で称賛した光景。


――倉庫を救った冬の日。

白カビと黒い斑点に覆われた食料庫で、彼女は躊躇なく酢を振り、道具を持ち込んだ。《ピュアヴィネガー》という妙な名前の液体が、冬の飢えを未然に防ぎ、村人の命を繋いだ。


――竜の巣での出来事。

騎士団が討伐を構えていた中、彼女は腐臭の漂う巣に乗り込み、骨や残骸を撤去した。竜は静かに眠り、村は一滴の血も流さずに守られた。


王子は息を吐き、額を押さえた。

(あれらは……単なる掃除なんかじゃなかった)

それは、城の威信を守り、国民の生活を豊かにするための行動。誰もが見落としていた「快適さ」という土台を、彼女は一人で支えていた。


ふと、喉に渇きを覚え、手元のグラスを取る。

中の水面に、薄く笑う自分の顔が映っていた。

(……ミランダを失うということは、この城からその快適さをも失うということか)


その考えが胸に落ちた瞬間、婚約解消の書類は、急にやけに重たく感じられた。アレクシス王子は、窓の外に広がる月明かりの庭をぼんやりと眺めていた。

婚約解消の書類は、机の端に置いたまま。

触れれば簡単に終わる話――のはずなのに、指先は一向に動かない。


(ミランダを失うということは……)

それは、城の隅々まで行き渡っていた、あの不思議な快適さと安心感を失うことだ。

朝の廊下の清々しい空気。整えられた書類の山。舞踏会でも倉庫でも竜の巣でも、迷わず行動し、結果を出すあの頼もしさ。


頭では、政略結婚の利点も理解している。

新たな同盟国との繋がり、資源の取引拡大、政治的安定――どれも重要だ。

だが、心の奥で囁く別の声があった。

(だが、それで日常の基盤を失っていいのか? 国の“暮らし”を守れるのは、あの女だけではないのか?)


深く息を吸い込み、王子は書類を手に取った。

だが、ペンを走らせる代わりに、彼は静かに筆蓋を閉じる。


「……保留だ」


独り言は、夜風に溶けて消えた。

机の上に置かれた書類は、まるでその判断を黙って肯定するかのように、月光に照らされて静かに光っていた。宰相は、王子の決定を聞いた瞬間、額を押さえた。

「……殿下、それでは政略の話が進みませぬぞ」

声は困惑していたが、すぐにため息混じりに続ける。

「しかし……確かに、ミランダ様が整えた環境改善は、城内の誰の目にも明らか。成果を否定はできませぬ」


一方、王妃は扇子で口元を隠しながら、ゆるやかに肩をすくめた。

「ふふ、あの娘に心を掴まれるなんて、あなたも案外庶民的ね」

その声音には呆れ半分、けれど母としての安心も半分含まれていた。


そして肝心のミランダ本人。

王子が「婚約解消は保留にする」と告げると、彼女はわずかに首を傾げ、にっこり微笑んだ。


「まあ、保留ということは――まだ掃除できますわね。よかったです」


あまりにも平然とした返答に、王子も宰相も一瞬言葉を失う。

だが次の瞬間、ミランダは袖を軽やかに翻しながら侍女たちへ指示を飛ばしていた。

「では、次は南棟の書庫を整理いたしましょう! 湿気が多くて危険ですから!」


――婚約よりも掃除を優先する令嬢。

その姿に、王子はまた胸の奥が妙にざわつくのを感じた。王子アレクシスの執務室。


山のように積み上がった書類に、彼は頭を抱えていた。

「なぜ、こうも机の上が……」

そのとき、扉がノックされ、すっと入ってきたのはミランダ。


彼女は状況を一目見ただけで、眉をぴくりと上げる。

「殿下、机の上が風通しを妨げておりますわ」


そう言うや否や、彼女は軽やかに手を伸ばし、山積みの書類を種類ごとに瞬時に仕分け、整然と並べ直した。

まるで魔法のような速さで、机の上がぴかぴかに整頓される。


アレクシスは呆然とそれを見つめ、思わず胸の奥から言葉が漏れた。

「……やはり手放せない」


声は小さかったが、横に控えていた側近の耳にはしっかり届いていた。

「殿下、いま何と……?」


アレクシスの頬に一瞬で赤みが差す。

「な、何でもないっ!」


側近たちは心の中で一斉にツッコミを入れる。

(殿下、それ……婚約者としてじゃなく、掃除人として手放せないって意味じゃ……?)


一方ミランダは、何事もなかったように机を拭きながら、にっこりと微笑むのだった。

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