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第1話「転生初日、廊下の隅の埃が許せない」

転生の瞬間

 ――目が覚めた瞬間、俺は「ここは病院か?」と考えた。

 だが、視界に飛び込んできたのは白い天井ではなく、金色の彫刻が施された天蓋。

 しかも壁は大理石、窓には分厚い緋色のカーテン、そしてシーツは絹の肌触りだ。

 間違いない。ここ、俺の六畳ワンルームじゃない。


「……え、豪華すぎんだろ」


 上半身を起こした瞬間、体の軽さに違和感を覚える。肩も腰も痛くない。

 昨日まで56歳・清掃会社の現場責任者だった田所清志は、いつも腰痛と膝痛と戦っていた。

 いや、昨日どころか――たしか俺、残業中にデスクで意識を失って……あれ、死んだ?


 恐る恐るベッド脇の姿見へ足を運び、覗き込む。


「……誰だお前」


 そこには、銀色の髪を波打たせた美少女が立っていた。

 肌は陶器のように白く、瞳は薄紫色。ドレスは朝から舞踏会に行けそうなレベルでフリフリだ。

 いや、立っていたのは鏡の向こうの俺――らしい。

 ゆっくり片手を上げると、鏡の美少女も同じ動きをする。


「いやいやいや……これ、夢じゃなくてアレか? 転生ってやつ?」


 頭を抱えた瞬間、前世の記憶がドバッと蘇る。

 読んだことのある乙女ゲーム『ルミナリアの誓い』。

 その悪役令嬢、ミランダ・ヴァイスハルト。

 ヒロインをいびり倒し、最後は婚約破棄からの国外追放――お約束の悲惨エンド。

 ……よりによってそこかよ。


 さらに嫌なことに、ゲーム知識によれば“婚約破棄断罪イベント”は半年後に確定している。

 つまり半年後、俺(中身おっさん)は舞踏会で王子に「婚約破棄だ!」と指を突きつけられる予定。


「はは……なんだこれ。よりによって悪役令嬢で、賞味期限半年か」


 だが同時に、豪奢な部屋の片隅――カーテンの裾に積もった灰色の埃が視界に入った。

 ……何だこのホコリ団子。


 脳内で“命の危機”という言葉が吹き飛び、“掃除しなきゃ”が占拠していく。

 そして俺は悟った。

 半年後の断罪イベントよりも先に、まずこの部屋をピカピカにする必要がある――と。


初めての屋敷探索


 豪奢なドアを開け、俺は初めて屋敷の廊下へ足を踏み出した。

 赤い絨毯、壁には金の縁取りの絵画、天井には煌びやかな燭台。

 まるでドラマの撮影セットだ。いや、セットより高そうだ。


「おお……これが貴族の廊下ってやつか……」


 感心しながら歩き出して――俺の視界は、ある一点で止まった。


 壁際、廊下と絨毯の境目。

 そこに、灰色の毛玉状の何かが鎮座している。

 いや、あれは……間違いない。ホコリ団子だ。


 瞬間、目の奥がピクついた。

 心臓がドクンと鳴る。

 だめだ、これは職業病だ。見なかったことに――しよう。


「……見なかった。うん、見なかった」


 俺は前を向き、歩みを進める。

 1歩、2歩、3歩――。


 ……無理。


 3歩目でくるりと踵を返し、ズンズンと戻る。

 執事服の男が「お嬢様?」と声をかけてきたが、聞こえないふりだ。

 膝をつき、壁際のホコリ団子をじっと見つめる。

 そこに積もっているのは、埃だけじゃない。怠慢と油断と、そして――カビの匂い。


 背後で控えていた侍女二人が顔を見合わせる。

 この時点で廊下の空気が妙に静まり返った。

 もしこの場にBGMがあったなら、間違いなくレコードの針が「キュッ」と止まった音がしていただろう。


「セバスチャン、この屋敷の掃除、最後にしたのはいつです?」

「……えっ?」

「これは……やり直しですね」


 俺の声に、執事も侍女も呆然と立ち尽くした。

 たぶん彼らは、この瞬間から半年後の断罪イベントがどうでもよくなる未来を、まだ知らない。



掃除衝動爆発

 俺はホコリ団子を指でつまみ、しばし無言で見つめた。

 ……もうダメだ。理性の堤防が決壊した。


「ちょっと失礼」


 廊下に膝をつき、赤いカーペットの端をベリッとめくる。

 ぱっと現れたのは、長年の埃と靴跡にくすんだ木の床。

 俺の清掃員としての血が、再び沸騰する。


「はいはい、こういうのは――こう!」


 袖をまくり、そこらの侍女から布巾をひったくると、木目に沿ってゴシゴシと擦る。

 ああ、汚れが落ちていく音がする……! 床が本来の色を取り戻していく、この快感!


「お嬢様!? 登城の準備が……!」

 背後で執事セバスチャンが慌てて声を張り上げる。


「そんなことより、ここはいつ掃除したのです!?」


 俺は顔も上げずに問いかけた。

 セバスチャンは口をパクパクさせるだけで答えない。

 すると近くの侍女二人が顔を見合わせ、ひそひそと囁く。


「……え? 掃除って形だけじゃ……?」

「ほら、箒をちょっとかけるだけで終わりって……」


 ……お前ら、それを掃除とは呼ばない。


「そこ、立ってないでバケツ持ってきなさい! できれば二槽式! あとモップも!」


 気づけば完全に現場監督モードになっていた。

 セバスチャンが何かまだ喋っていた気がするが、耳に入らない。

 床の光沢と、手に伝わるこの摩擦感――今はそれだけが真実だ。


 俺は、悪役令嬢としての人生を忘れ、ただ一心不乱に木の床を磨き続けた。


使用人総動員事件


 俺が床を磨き続ける様子を、廊下の端から侍女たちがぽかんと見ていた。

 そんな中、見かねたのか、年配の侍女――マーサがズカズカと近づいてきた。


「お嬢様、こちら……」

 差し出されたのはバケツと雑巾。しかもバケツはちゃんと二つだ。


「おお、わかってるじゃないか!」


 俺は思わず笑顔になった。

 さっそく一つのバケツにぬるま湯、もう一つに濯ぎ用の水を張る。


「いいか、みんな聞け!」

 俺は廊下に集まった侍女たちをぐるりと見渡した。

「モップはただ押し付ければいいわけじゃない。角度は――こうだ、45度。力は均等、木目に沿って動かす」


 実演しながら説明すると、マーサが「なるほど……」と小さく頷く。

 ほら、プロの技はこうして伝わるんだ。


「それからバケツは二槽式。片方で濯ぎ、もう片方で絞った雑巾を浸す。汚れを移さず、常に綺麗な水で拭ける」


「すごい……」

 若い侍女の一人が、床を見下ろして呟いた。

「床って……こんなに白かったのね」


 確かに、磨き終えた場所と未清掃の場所は、明らかに色が違う。

 陽光を受けて木目が輝き、廊下がまるで宝石のように光っている。


「さぁ、そこも! はい、力を抜いて、角度は――そうそう!」


 気づけば廊下中の使用人たちがモップや雑巾を持ち、俺の指導のもとで動いていた。

 執事セバスチャンが遠巻きに「お嬢様……登城……」と呟いていたが、今この現場に必要なのは掃除だ。


 俺は悪役令嬢、ミランダ・ヴァイスハルト。

 そして今、この屋敷の床を史上最高に輝かせる清掃隊長でもある。



婚約者レオン王子登場(予定外)

 屋敷中がバケツと雑巾で埋め尽くされ、廊下は清掃部隊の戦場と化していた、その時だった。


「お嬢様、大変です! レオン殿下が――!」

 侍女が息を切らして駆け込んでくる。


「は? なんでこんな朝っぱらから……」

 俺が顔を上げる前に、廊下の奥から革靴の音が近づいてきた。


 現れたのは金髪碧眼、完璧な微笑みを常備する婚約者――レオン・フォン・エルデ王子殿下。

 ただし今は、微笑みというより「え、なにこれ」という顔だった。


 なにせ目の前にいる婚約者は、豪奢なドレスの裾をたくし上げ、膝をつき、モップを握って木の床を磨いているのだから。


「……何をしている?」

 王子の声は低く、慎重に言葉を選んでいるようだった。


「見ての通り、床の汚れを落としております」

 俺は堂々と答え、再びモップを動かす。

 キュッ、キュッと小気味よい音が響く。


「いや、そうではなく……なぜ、あなたが……」


「理由? そこに汚れがあったからです」


 王子は呆れたようにため息をついた――が、その目が一瞬だけ揺れた。

 視線の先には、磨き終えた廊下が陽光を反射して眩しく光っている。

 そこだけがまるで新築のような輝き。


「……これは……」

 言葉を失った王子の横顔を、俺は見逃さなかった。


「殿下もモップをお持ちになりますか? 楽しいですよ」

「遠慮しておこう」

 即答だったが、その声色はわずかに迷いを含んでいた。


 もしかしたら、この王子……将来掃除仲間になる素質があるかもしれない。


王子の退場とざわめき

 俺の足元で、最後の水拭きを終えた廊下がつやつやと光っている。

 それを一瞥した王子は、ふっと小さく息を吐いた。


「……まぁ、綺麗になるのは悪くない。だが――ほどほどにな」


 軽く眉を上げ、微笑みを浮かべて言う。

 え、ちょっと待て。原作でそんな台詞、なかったぞ?

 もっとこう、「淑女らしく振る舞え」とか「余計な真似はするな」とか、そういう冷たい言葉だったはずだ。


「承知いたしました、殿下」

 俺が礼をすると、王子は踵を返し、ゆったりとした足取りで廊下を去っていった。


◇ ◇ ◇


 ――そして、すぐに屋敷がざわついた。


「……見た? 殿下、笑ってたわよね」

「ええ、しかも優しげに……」

「いつもあんな仏頂面なのに……」


 執事セバスチャンまで、鼻の下をさすりながら「殿下の笑顔……何年ぶりでしょうな」と呟く。

 おいおい、何がどうなってるんだ。


 本来なら、今日のやり取りは婚約破棄ルートの第一歩――王子が俺の変人ぶりに呆れ、距離を取るきっかけになるはずだった。

 なのに現実は、なぜか周囲の「好感度微増イベント」に化けている。


(……掃除の力、侮れんな)


 俺はモップを肩に担ぎながら、妙な手応えを感じていた。

 断罪回避どころか、このままじゃ攻略対象までクリーニングしてしまいそうだ。


掃除後の達成感と決意


 最後の一拭きを終え、俺は雑巾を高く掲げた。

 陽の光を受けた廊下は、もはや鏡。

 天井のシャンデリアが床に映り込み、逆さまの世界を作っている。


「……よし、完璧」


 腰を伸ばし、深呼吸。

 水と木と石鹸が混ざった、あの“清潔な匂い”が胸いっぱいに広がる。

 この瞬間のために生きていると言ってもいい。


「半年後の断罪イベント? まぁ、それまでに全部ピカピカにすればいい」


 自分でも何を言っているのかわからないが、妙にしっくりくる。

 床も、壁も、窓も、ついでに王城も……全部磨き上げれば、きっと未来は輝くはずだ。

 断罪? そんなもの、清掃の前ではただの汚れの一種だ。


 カタ、カタ……カタ、カタ……

 陽気なリズムで箒の音が響く。

 俺はそのBGMを背に、次の掃除現場――いや、次の戦場へ向かった。




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