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50 ある女性の話①

 時は過去に戻る。


 それはまだ、私が一般的な女性の頃の話だ。


 その頃の私は都内に籍を置いていた一般企業の事務員であり、平凡な日々を過ごしていた。事務員……と言っても何か対人仕事があるわけではなく、淡々とパソコンという機械に向かって、ひたすらキーボードを打ち続けて会社の財務を担っていく仕事だった。


 そんなある日のこと。私はいつも通りに定時を迎えたので、そそくさと帰ろうとしたところ、上司の男性から呼び止められた。


 ある一件で私を呼んだらしい。


 「どうされましたでしょうか」


 私は上司のデスクの前で訊ねた。上司は顔面として鬼のような顔つきだが──優しそうな声や性格でギャップが出るような人だった。その上司からある一枚の紙を渡された。その紙には〝辞職勧告〟と書かれており、その下には友井靖子と自分の名前が記載されていた。


 「お前、会社のお金を横領したな?」


 いつもの優しそうな口調から一転、上司の声はより厳しいものだった。


 「し、してません」


 私は否定した。だって、横領なんてしてない。


 内心〝辞職〟という文字に揺さぶられながらも、私は必死に冷静な気持ちを維持しつつ、上司の怒りに満ちた目を見据えた。


 「あるんだよ。お前が横領したって言う証拠が」

 「えっ?」


 証拠? なんで? 本当にやってないのに。


 呆然としながら、私は上司に突きつけられた証拠と言う複数枚の書類に目を通した。それらの書類のうち一つは決算書類であり、目を凝らして見ると、書類の端に何の目的で使用されたかは分からないお金の記載があった。


 使途不明金、と言うべきか。


 だけど、私はやってない。


 絶対に。


 「やってません」


 私はきっぱりと言い放ち、書類を上司の机に乱暴に置いた。その所作を険しい顔面で見ていた上司は深々と溜息をついた後、「これを見ても、か?」と強い威圧感を込めた口調で一枚の書類を私に見せてきた。


 そこには、その使途不明金で何を購入したかが分かるものだった。


 「……やってません」


 それでも私は否定した。だって、本当にやっていないし、身の覚えがないから。そんな証拠を私に突きつけられたって、私にはやったなんていう過去がないし、記憶がない。第一、会社のお金を横領して何になる?


 「嘘つけ‼」

 上司が怒鳴った。その場に在勤していた他の人達が驚き、私に視線が集中する。


 「やってないです。本当に」懇願した。

 「やってるだろ‼ どう見ても」

 「本当にやってないです!」

 「じゃあなんでこんなに証拠が集まってるんだよ‼」


 オフィスの一室が上司の怒鳴り声で轟く。皆、私へ視線を向けている中、たった一人身に覚えのないことで怒鳴られている私は──否定しようと口を開こうとしていた。


 ただ、もうこれ以上否定したって、何になる?


 上司の怒りに油を注いで火を拡大させるだけだ。


 これ以上戦うか?


 いや、これ以上は無理だ。引き下がるしかない。


 これ以上言えば、私に対する処罰が重くなる。下手したら賠償請求が求められる。何百万? 何千万? ものを私のちっぽけな背中に背負わされ、辞めさせられる会社に支払らなければならない。


 私にそんなことが出来るか?


 いいや、出来ない。


 だったらもう──


 諦めるしかない。


 「分かりました」


 そう言い、私は足早と自分のデスクに戻る。デスクの傍に置いてあった自分の鞄を椅子に置き、鞄のチャックを開ける。そこに散乱しているデスクから、必要なものだけを取っては鞄の中に入れ、取っては鞄の中に入れる──と言った作業を少し乱雑でありながらも繰り返す。必要なものを全て鞄の中に仕舞い終え、鞄を持った際には重くなっていた。


 最後に自分の会社IDをデスクの真ん中に鎮座させる。


 「……もう私には要らないんだ」


 小声で呟いた後、誰一人声を掛けることのない職場を、私は去って行く。



 ※


 エレベーターで一階に下り、エントランスに出てそのまま外へ出ようとした時、後ろから私を呼ぶ声がした。


 もう私なんて必要ないのに。


 そう思って、後ろを振り返ると、そこには小走りで私の元に駆け寄る女性の姿が居た。彼女は私と同じ職場で働いている──と言ってももう過去形だから、働いていたの間違いだけど──橘さんだった。端麗な顔つきではあるが、低身長で子どもっぽい顔つきなためか、実年齢より若く見える。と言っても、実年齢を聞いた覚えがないが。


 「どうされました?」

 慇懃に私は訊ねた。


 「実を言うと、友井さんに伝えたいことがありまして」

 「伝えたいこと?」


 この期に及んで一体何だろうって言うのか。


 私は疑心暗鬼になりながら、彼女が伝えたいという話に耳を傾ける。


 「こんなことを言うと信頼を無くしそうなんですが……、友井さんの横領の件、でっち上げなんです」


 でっち上げ。その言葉に私は目を大きく見開いた。


 「でっち上げ……? 一体どういうこと?」


 内心驚きと怒りの気持ちが混ざりながらも、その気持ちを必死に押さえながら、私は橘さんに──告発してくれる同期に訊ねた。


 「私なんです。私が友井さんに罪を重ねたんです」


 平然と語った真実に、私は思わず橘さんにくってかかろうと思ったが、自分の心の住処にある良心が突発的な衝動を引き止めた。息を整えつつ、「どうして?」と冷静に訊ねた。ただ、その口調は何かに怯えているのか──怒っているのかのどっちかが、自分でも分かるほど震えた。


 「誤解しないでください。私は上の人にやれって言われたからやったんです」

 「上の人?」


 少し苛立ちの口調が含まれながらも、私は彼女に質問を飛ばした。

 「はい。さっき、友井さんとやりやった上司の人にです」


 あの人か……。


 落胆する気持ちと怒りの気持ちが同時に湧く中、その両方を必死に出るのを押さえながら──と言ってももう、十分に抑えきれる訳もなく、突発的に「あいつか……!」と恨めしげな口調が出ていた。


 「ええ。それに、あの人もやりたくてやったわけじゃないと思います」

 「やりたくてやった訳じゃない? どういうことよ」


 訳が分からない。自分を陥れたくてやったんじゃないのか。

 益々苛立ちの気持ちが自分の中で噴き出ているのを感じながら、橘さんが「あいつらのせいです」と言った言葉を何とか冷静に聞く。


 「あいつら?」

 「狩人です」

 「狩人が? なんで?」

 「分かりません。ただ、一つだけ言えることがあります」


 意を決した表情で橘さんが話した後、数秒彼女が周囲を見渡してから、手招きして私の耳に小声で話し始めた。


 「この会社を乗っ取ろうとすることです」

 「乗っ取と……る⁉」


 驚きの事実に私は思わず声を大きくしてしまうが、目の前の女性に「静かに」と唇の前で人差し指を立たされ、すぐに冷静になった。


 「だ、だけど……なんで」

 「うちの企業って確か、狩人……じゃなくて、隔離職員たちが勤務する某研究所の半官半民の企業ですよね」

 「え、ええ。いつもあの人達と話し合って道具の貸し借りを決めているわよ。でもどうして」


 私がつい先程まで勤務していた企業は元々医療器具を扱っていた業種なのだが、医療器具で業績の失敗が重なったことから、新分野として隔離施設職員が使う道具の貸し借りを行っていた。その直後、瞬く間に企業は成長していき、国からの保護を受けることにもなった。


 しかし、なぜ隔離施設職員たちがこの企業を乗っ取ろうとしているのか。

 それは私にも当然分からなかった。

 それは橘さんでも同じらしく、彼女もまた目の前で苦虫を噛み潰したような表情をしていた。


 「私、上司に直接言ってきます」

 そう言い、この場を立ち去ろうとする。だが、私は反射的に彼女の華奢な手首を掴んでいた。

 「待って」

 「何ですか、辞めたくないんじゃないですか」

 橘さんから鋭い眼光を浴びさせられる。


 私だって辞めたくない。


 だけど、狩人──隔離施設職員は事実上の国家公務員の資格を持つ人々だ。もし彼らが私を辞めさせようと暗躍して、その動きに抗ったら──何を仕返しされるか、分からない。


 どう動こうと、多分彼らに察知される。そして、仕返しされる。


 場合によっては、隔離施設とは別の実験施設に移送されて吸血者にされるだけだ。


 嫌な想像が脳裏を掠める。


 「……どうしたの」


 私の深刻な表情を悟ったのか、橘さんが優しく、不安な表情で呼びかけてくる。微笑ましい表情が私の不安な心を希釈してくれそうな気がした。


 「……聞いたことがあるの。彼らが、普通の人間を吸血者にしてるって」


 橘さんは黙ったままだった。だが、神妙な面持ちになっている限り、彼女も又その話を聞いたことがあるのだろう。


 「あくまで噂話なんだけどね」私は橘さんの手首をそっと放した。「昔、高校の同級生たちと久しぶりに集まって飲み会をしていたの。その中に、隔離施設職員となっていた人が居たんだ。その子の話によれば、隔離施設には科学者たちが常駐していて、その中の一人がとてつもない権威を誇っていて、その科学者が実験と称して……人間を吸血者にしてるって」


 「なにそれ……あり得ない」


 絶句する橘さんを見つつ、私は首を横に振って「ううん……これが事実なのよ」と落ち着いた声で言った。


 「その場に居た私は半信半疑だったんだけど、その子が『今度隔離施設で見学する日があるんだけど、誰か一緒に来る?』って言ってたから、複数人──その中に私も含まれているんだけど──で後日行ったの。で、その時に見てしまったんだ。……人間が吸血者にされているところ」


 「……え」


 形容する言葉が見つからないのか、私の目の前に居る女性はただただ言葉を失い、目を見開いたままだった。


 「それじゃ……本当に抗ったら」


 今にも想像しているのだろうか、橘さんはみるみる絶望していく表情へと変貌していく。私は彼女の気持ちを察しつつ、頷いた。


 「……ええ。多分、この場で私が抗ったら吸血者にされる。人間には戻れなくなる」

 「でも!」

 「でもじゃない! 吸血者にされたら、あなたも分かってるんじゃないの?」


 分かってる。私だって本当は抗いたい。


 けど、ここで抗ったら何をされるか分からないし、狩人に攫われてあの施設に入れられるかも知れない。そして、吸血者にされるかもしれない。


 そう思ったら──そう脳内で想像したら──堪えられるのだろうか。


 その実験の最中もそうだし、その後もそうだ。


 今も吸血者たちは貶ますような世間の目線で見られ、彼らを人間として見ていない人が多い。それどころか、彼らを暴人と蔑んで差別をしている人達がいる。彼らは今も肩幅を狭くして暮らしているのだ。

そんな日々を、私は堪えられるのだろうか?


 今まで勤務してきた中で、何人もの狩人と話す上で何人もの吸血者と出会ってきた。狩人の元々の名前は隔離施設職員なのだが、逃げ出した吸血者を問答無用で殺害していることから、その身内からそう呼ばれるようになっている。そう呼ばれていることに彼らはあまり喜ばしい状況ではないが、仕事として彼らは働いている。


 吸血者も同じだ。なりたくてなった訳ではない。けどなってしまったから生きている。そんな吸血者を誰よりも理解しているのが、実は隔離施設職員つまり狩人であり、互いに理解を示そうとしている人達が大勢居る。


 だが、示さない職員だっている。


 その職員に限って、大体は家族や恋人など大切な人達を吸血者に奪われていることが多いし、恨んでいる人達が多い。そう言う人達は大体、好んで彼らを殺害するのである。

滑稽だ。


 人間もそうだが──


 吸血者もそうだ。


 結局、どちらも人間なのだ。


 命ある限り──同じ言語を話している限り──我々は人間である。


 吸血者? そんな枠組みどうでも良い。


 大事なのは、彼らもまた人間であることのみだ。


 私は自分の小さな掌を見た。


 こんな小さな掌で吸血者を救えるなら、救ってみたい。隔離施設職員を救えるなら救ってみたい。両方

救えるなら、救ってみたい。


 そう思って、私はこの会社に勤務していた。


 最初配属された先は私が望んでいたものとは異なり、ただ会社の雑務を熟すようなものばかりだったが、数年前から隔離施設職員と話し合って商談をすることが多くなった。


 そのことに私は何かしら意義を見出していた。


 とにかく、私は嬉しかった。ただ、それだけ。


 なのに──


 私はこの会社から追い出されようとしている。


 身に覚えのない汚れによって。


 悔しい。悔しすぎる。


 出来ればこのまま残って仕事をしたかった。どんな言葉があれど、私は私のまま生きて、仕事を熟した

かった。


 けど、誰かの陰謀のせいなのか──私は辞めさせられようとしている。


 真相を突き止めたかった。


 突き止めて、いつも通り仕事がしたかった。


 「……友井さん」


 橘さんが私の様子を見て心配しているのか、優しい口調で話しかけてくる。キュッと結ばれた口元から 嗚咽声が漏れ出してくる。


 「……分かってる。ここで泣いても、仕方ないんだ」

 「じゃなくて」

 「……じゃなくて?」

 私は顔を上げた。目の前には決意に溢れた表情をした同期の女性が立っていた。


 「私、戦います」

 「……え」

 掠れた声だった。橘さんは右手で拳を作り、それを私の胸の前に突きつけてきた。


 「戦って、友井さんの場所を取り戻します」

 「取り戻すって……どういうこと」


 自分の為とは言え、危険だ。


 考えすぎかも知れないが、もしこれが隔離施設職員たちによるものだとすれば、今度は橘さんの立場が 危なくなる。


 「ありがとう……でも、もういい」

 「もう良いって……このままで良いんですか」

 「……良いの。このまま抗うより、ジッとしていたら物事が落ち着くことが多いから」


 そう言い、私は嘗て仕事を共にしてきた同期を背にして扉に向かった。


 後ろで何か告げようと橘さんが話している。だが、もう私の為に頑張らなくて良い。


 私はもう──この会社の一員ではないから。


 そう思いながら、私は小股で会社を去った。

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