七
七
主人は見たこともない眩い婦人が目の前にいることで、心はまたどぎまぎし、ますます落ち着かない様子であったが、なおもきょろきょろと後を気にし、手を揉み腰を浮かしながら、戸口の方を振り返ると、またもや慌てふためき、転んで青ざめた。
「や、や、だからそれ、言わぬこっちゃない。アレ見えた。さぁ大変じゃ、お品拝む、助けると思ってうまく言い訳をしておくれ。俺ぁもうここにはおられん。あなたもどうぞ、どうぞお言葉を添えていただき、穏便に、穏便に、出るぞ、頼んだぞ」
言うが早いか、部屋の中を慌ただしく動き回り、ぶつかるようにして裏口から田圃へと向かって駈け出して行った。二人は顔を見合わせ、同時に戸外に眼をやれば手綱を手にした人物がいて、軒よりも高いところに、近衛士官の制服である緋の洋袴の片足をかけて悠然と鞍に跨がっている。女作家はそれを見て微笑んだ。
「あれ、旦那様はマァあの子を憲兵だとお間違えなすったんですよ。お品さん、弟です」
「それじゃ、あの……」
「はい、Xを差し上げました弟ですわ」
女作家はそう言って、信行を抱いたまま、裳裾を捌き、するりと立って、玄関近くまで寄り、
「千代さん――千代さん」と呼べば、
「はい」と答え、馬上から透かすように見て、
「おや、姉さん、ここに」
と言うが早いか、腰に提げた剣の柄を持ち添えて、ひらりと馬から下り立った。
「今ね、面白い男がさ、僕を見てあの踏切へ鰒を打っ棄って駈け出したから、妙なことをすると思って後をつけて来たんですが、姉さん、ここは誰方の?」
「はぁ、お品さんのお宅なの。ちょいとご挨拶するがいい。あなた、千代太郎です」
青年士官は轡を取って歩を進め、框の外から軽く会釈をして、
「あれ以来ですね、その節は」と言えば、
「しばらくでございました」と。
この時の品子の、その眉は整い、その鼻は隆く、その口は緊り、その眼は涼しく、姿全体が堂々としていて一人の、否、決して貧家の妻ではなかった。
須賀子は今のこの状況にけりをつけるように、
「千代さん、お前、散歩かい」
「は、雑司ヶ谷の方から新井へ廻ってきました。日曜で、お天気ですから」
「まぁ、よくね、好い所で出会ったよ。ちょっとお上がりでないか。お邪魔させて戴きな」
「どうぞ、さぁ」
「いえ、今日はこんな大きな荷物と一緒ですから、いずれ」
青年士官が軽く微笑んだ時、轡の音がして、蹄の響きが大きく聞こえた。
座を立った時、目を覚ました幼いものは、優しい腕の手に縋って、人見知りもせずにこやかな表情をしていたが、大きな動物の気勢がして、ふとその頭をもたげ、士官が跨がった馬を眼早く見て、
「お馬、お馬」
と、須賀子の胸から背返りして、腕に伸び上がり、嬉しそうに指をさしながらそう言った。
「あぁ、お馬、お馬ですよ、坊ちゃん。お好き? あの、お好きなんですか」
「大好きなんです」
「勇ましいわね。千代さん、ちょっとお抱きしてお乗せして上げたらいい」
「いいですよ、さぁいらっしゃい」
「泣かせちゃぁ駄目よ」
須賀子は片足を土間に下ろして、弟の手に信行を渡すと、そっと目配せをしながら、
「遠くへは行かないでさ」と耳打ちした。
品子は座ったまま、それを見て、
「恐れ入ります」と言うだけだった。
士官は「どれ」と抱き取り、そのままひらりと馬に乗った。立って見送りもしない品子の顔を熟と見てから顔を背け、にこにこ顔の幼児の頬に顎を当てて俯向いた後、颯と背筋を正したが、鞭を当てようとせず、馬の気の向くまま歩かせて行った。
「お須賀さん」
今、座に戻ってきた須賀子の手を、主婦は突然固く握り、年上である自分の膝に引き寄せるようにして、顔色を変え、身体を震わせていたが、何を思ったのか、急に笑い出した。
「ほほほ、あなたは鰒を召し上がりますか」
と、握った手に力を籠める。突然の挙動にさすがの作家も気を呑まれ、呆れて目を見張り、真顔で主婦を見詰めるだけであった。
「召し上がるんですか、あの、鰒というものを、え?」
「いいえ」と言葉少なく答えた。
品子は頷き、
「召し上がらない、そうでしょう。けれども、そりゃあなたがお一人だからさ、その内ご結婚をなされば、そうすれば、きっと鰒をお上がりになりますよ」
「どうでしょうか」
女作家は茫然としている。主婦は膝の上に押さえた年下の女の手をまた強く押しつけながら、
「どうでしょうかってもね、お須賀さん、ここに毒があるとします。いいですか。恐ろしい、恐ろしい毒を含んだようなものがあるとしましょう。見るのも嫌、食べたら生命に関わりはしないかと怖気が立つ、そういう毒のあるものですよ、いいですね。で、自分の旦那がそれを食べて、『どうせ中毒って死ぬのなら一緒じゃぁないか。毒に当たる分には誰だって同じこと。夫婦なのに一人が食べる物をもう一人が食べないということはないだろう』
と、まぁ、そう言われた時には、あなた、どうします。お須賀さん、ねぇお須賀さん」
須賀子はわっと泣き出した。品子はその肩をしっかりと掻き抱いて、
「……もう一度、あなたと打毬をして遊びたいね」
と言うや、はらはらと涙を落とした。