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 六

 須賀子は主婦(あるじ)の顔をまじまじと見ながら聞いていたが、急に身を(おお)いかぶせるようにして、幼児の腹に自らのふっくりとした重ね着の柔らかい胸を当て、両手で(ひし)と抱きながら膝に乗せて抱え起こした。そして、うっとりと眼を開けながら、まだ訳が分からずにいる様子のその子の頭に、須賀子は頬をつけながら、(うら)むような口振りで、

「いけませんよ、いけません。もう、そんなことをおっしゃる方に、この子を預けちゃおけません。どうして、この坊ちゃんをあなたに持たせておかれますものか。危ない!」

「え?」

「危険ですわ、本当に……」

 そう呟きながら真顔になり、(きっ)と表情を固くした。

「あなた」

「はい」

「このお子を私に下さいませんか」

「あの、信行(のぶつら)を?」

「えぇ、私に下さいまし。どうぞ、私に下さいましな。子を持ったことはございませんが、育て方は教わりました。あなた、学校の先生もまるきり間違ったことは教えますまい。きっとお育ていたします。立派な大人にしてみせますから、思い切って預けて下さい」

 主婦(あるじ)はまた須賀子の顔を(じっ)と見守り、

「しかし、それは(わたくし)一人の子じゃありませんもの」と続けた。

「旦那様には何とでも好いようにおっしゃいましな。(なく)したとでも、忘れたとでも。あらたまって話したら、そりゃ何てたってお一人子(ひとりご)他人手(ひとで)にかけようとはおっしゃらないでしょうから、そこはあなたが適当に(はか)らって何とでも好いようにして、どうか私に預けて下さい。ね、あなた、いいでしょう」

 主婦(あるじ)は返事を返さなかった。

「いいでしょうね、駄目だって言ったって、どうしてもお連れしますよ!」

「もう、学生気分でいらっしゃる」

 と、珍しく大袈裟に笑った。須賀子が本心から言っているとは思っていないのである。

 須賀子は真剣な顔つきになって、

「冗談ではありませんよ、あなた」

 そして、一際(ひときわ)声を落としながら、

「あなたに持たせておきますとね、坊ちゃんの身が案じられます。しまいにゃ、あなた、殺さずにはおきますまい!」

 主婦(あるじ)は青くなった。

 と、その時、玄関の戸を慌ただしく引き開け、裾を端折り、痩せ細った長い(すね)を露わにして、ひょこひょこと身を浮かすようにした忍び足で、しかし息忙(いきせわ)しく走り込んだ男がいた。この家の主人(あるじ)である。その瞳は定まらず、うろうろと見廻す眼には、女性客も眼に入らないようであった。乱れた身なりを直そうともせず、妻の(かたわ)らに這いつくばって、助けを求めるような弱々しい声で、

「お(しな)、あぁ吃驚(びっくり)した、吃驚した」

「どうなさいましたの」

 極めて何気ない様子を(よそお)ったけれど、眼の色はただならなかった。品子にすれば、目の前の夫より、今さっき、女作家に自分の胸の内を見透かされたことを思ってのことだろう。

 夫はただどきまぎしているだけである。

「あぁ、あぁ、お品、憲兵さんが来た」

「何をおっしゃいます」

「何をって、お前、来たよ、憲兵さんが来たよ。憲兵さんが来たんだよ」

「憲兵さんがどういたしました」

「あのさ、憲兵さんがの、今日な、棒手振(ぼてふり)(*1)の(かく)がな、お前、河岸(かし)のこぼれだって見事な奴を一尾(いっぴき)持っておっての。見ると(うま)そうで、ハヤどうしようもなくなって堪らんじゃ。で、五百出して(でっか)い奴の、これくらいあろうというのを買い込んで、一つうんと御馳走になろうと思うて、まだ仕事中じゃったが、一度途中帰りをして、(うち)へ置いて出直そうと思い、踏切のこっちまで来ると、あぁ、どれほど吃驚(びっくり)したことか、向こうから歳の若い、顔のきりりとした、何でもお見通ししそうな立派な憲兵さんがお馬で、ずい、とやって来るじゃないか。泡を食って半被(はっぴ)の下へ隠したけれど、例の奴が矢鱈(やたら)(でっか)いときてるので、ぬぅと尾の先が見えくさる。ハッと思った。と、向こうでも目をつけた。南無(なむ)(さん)じゃ。御法度(ごはっと)なのは承知じゃ、お前もそう言ったけが、憲兵さんは厳しいで、巡査(おまわり)のようなものではのうて、恐ろしくとっちめると知ってたで、堪らんわ。そのまま地面へ打っ(ちゃ)って逃げて来たが、どうもな、(あと)をつけてきたようで落ち着かれん。この件で(とが)められることになってしまうのかの、の、お品」

 と、心配顔である。馬鹿馬鹿しいけれど、これを見て妻は冷ややかに笑い()てることもなく、

「何です、あなた、何をお()てなさったの」

「えぇ、御法度(ごはっと)の例のものよ。それ、『喰わぬたわけに喰うたわけ』と言う。

「お魚?」

「やれ、物わかりの悪い、(ふぐ)じゃ」

「まぁ、どうも」

 と、妻は微笑むだけである。(*2)

 須賀子は他人(ひと)の子を抱いたまま身体を脇に寄せ、じっとして、自分から名乗ろうともしなかった。

「坊に喰わせてやろうと思ったのに、もったいないことをした。あぁ、身体中(からだじゅう)が生臭い」

 と、袖を広げて匂いを嗅ぎ、眉根を寄せて天井を仰いだ。やがて、その細い眼はフト女作家がいることに気づいたが、どこの誰とは分からず、素っ頓狂な声を上げて、

「や、これはどこのお姫様!?」

 とだけ言うと、おどおどしながら馬鹿丁寧なお辞儀をした。


 *1 棒手振(ぼてふり)……天秤棒に魚をつりさげて売り歩く行商人。

 *2 「まぁ、どうも」と微笑んだのは品子か須賀子かと悩んだが、流れに添って妻である品子として訳した。


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