三
三
「本当に済みませんでした。も、どうしたらいいでしょう。私にもうちょっと分別があれば……。こうして、今日だってそうなんです。こうやって参られた訳じゃぁないのですけれど、つい、あの弟がね、富坂上の古本屋だとか言いましたっけ、そこでこの本を見つけまして、こんな風に大切に読まれてあったもんですから、よし、私を一つ喜ばせようと思って買った時、たまたま丁度またあなたがいらっしゃってお店へお立ち寄りなさったと、そう言っていました。あの子はあなたを少しも知っている訳でもなかったでしょうに、『Xという小説は?』ってあなたがおっしゃったのを聞きましたそうで、おやっ、と立ち止まったそうです。
そうすると、こう、あちこち見廻しながら『さっき行きがけにちょっと見ておいたんだが、ここにXという小説本があったはず。それをちょっと借りたいが、どうしたんだえ?』と、ま、失礼ながら打ち明けて申しましょう。装にはお似合いにならないしっかりしたお言葉だし、お人品もお人品であるし、それにあの子も姉の書いた小説……というんですか、まぁそのことをお店の人にお訊ねになったみたいですから、どうも黙っていられなかったそうで、『これですね』と差し出して、買ったのをお貸ししたようですが、つい、お住所も伺わないで、それっ切り。あの、何ですよ。ええ、それも、その焼き芋をお買いなさったのもお見受けしていたそうですが、大層喜んで帰ってきましてね、そしてその話をするものですから、ふと、その何でしたの、お姿なり、お言葉つきなり、どうもあなたでおありなさるように思われましたので、もしやと思って古本屋で、その後四、五日ほどしてからでしたっけ、弟に訊かせましたら、『あぁ、ちょいちょい本をお借りなさいます、あの方ならば』って聞いたお名前があなたでしょう。
直ぐに出かけまして、お宅を伺ったら、つい二、三日前にこっちの新井の方へお引っ越しされたって、そういうもんですから、お目にはかかりたし、お詫びも言いたし、ずっとね、こう申しては何ですけれど、あぁ、学校時代では山科さんと言えば、上下を問わず有名だったのに、あんなにおなりになってからはどうしていらっしゃるのだろう、とね。仲の悪かったつまらない方が皆、馬車やら人力車やらで、やれ花だ、それ月だと面白く世の中を送っているのを見ます度にね、私は口惜しくって堪りませんで、何のつまらない、束ね髪の前垂れがけで構うものか、山科さんを引っ張り出して日本橋の上へ立たせたら、そんな連中は小さくなって河岸の軒下でも通るだろうにと、そう思わない日はなかったもんですから、つい、あんないたずら書きもしましたという訳で、お目にかかったら、またお机に縋りついて、詩集のお話でも伺おうと、実はね、あなた、思い込んでいたのですが」
そう言ってから、じっと見て、
「でも、ずいぶんとあなた、変わりましたねぇ」
主婦は膝を正した。須賀子も襟を掻き合わせた。
「汽車を下りると、田圃道で、もう方角も何も分かりませんので、道を訊こうとお顔を見るとそれがあなただったのには吃驚しました。お小さいのをお抱きなさって、草履穿きで地蔵様の前にお立ちになっていらっしゃった、あのお姿には本当に泣きました。私、ぼんやりしてしまいました。
けれども今のお話をお伺いしますと、特段ご不満もないようなお気持ちでいらっしゃる。あなたがそんなお気持ちなら、もし、あなたが何か不平でも口にするようであれば、却ってお宥めしなくてはならないようになりますね。
そりゃぁ、ご両親はおいでじゃぁなし、お小さい頃から伯父さんにお育てられ、そのご親戚のお計らいで今の旦那様に何もおっしゃらずに嫁がれなさいましたが、伯父さんだって本当にこんなことになろうとは夢にもお思いにならなかったでしょう。ま、その当時は立派にお暮らしなさっている方へお世話なさった訳ですから、それをお怨みなさるという訳にも行かず、一旦お嫁がれになった上は、旦那様ですもの、たとえどんな落ち目におなりなさろうと、あなたがとやかくおっしゃることができる訳でもなし、そりゃどこまでもお従いなさらなくてはなりません。つまり、あなたのお身体はすっかり旦那様のものとして。……でも、まぁ、こういう風なお暮らしをなさっていれば、なるほど学問をお学びなさったのがお邪魔になることでございましょう。源氏をお読みになるのも、英文をお綴りなさるのも、書のお見事なことも、フランス語がお出来なさいますのも、どんなにか、お邪魔になることでしょう。……あなた」
主婦の顔色が変わった。唇を細かく震わせながら、
「はい、邪魔になって、邪魔になって、邪魔になって、邪魔で、邪魔で。私ゃ何だってつまらない学校へなんぞ行ったんでしょう。邪魔で、邪魔でしょうがありません」
そう言い言い、眉を小刻みに動かした。




