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 二

 山科の主婦(つま)は痩せた身体である。(ひとみ)(すず)しげであるが、客に向かって話す声は沈んでいた。

「お須賀さん、ご覧のとおり、何のお愛想もなくて、お構いもできませんが、あなたにはその本が何よりでしょう。大層(えらく)大事に持っていたと見えますね。風説(うわさ)には聞いていましたが、私も拝見して面白いと思いました。めっきり(うま)くなったのね」

 お須賀は少しばかり顔を赤らめ、

「もぅ、お恥ずかしいんですよ。あなたの前じゃぁ冷汗が出ますもの。良いも悪いも、学校にいました時分はあなたにお作文を直して戴いていたんですものね。お読みになったなんて恐れ入ります。それに、あの、どうも済みません、つい自分勝手に書いたものですから、あなたがお怒りにならないかと思って、もう小さくなりながらこちらに参ったんです」

「いいえ、何をおっしゃるの、私のことを忘れないで、まぁ、よく書いて下さいました。でも、お須賀さん」

 と、この時、声に力が籠もったので、客である女作家は思わず俯向(うつむ)いた。

「長屋も長屋、こんな辺鄙(へんぴ)な所の、路地の奥で、ご覧のとおり八畳一間。あなたには見栄も外聞もありませんが、火鉢一つないでしょう。それに、手桶にも不自由していて、お客様にお茶を出すにも、この口の欠けた土瓶を持って、私が井戸端へ行くんですよ。大きな釣瓶から小さな口へ入れるので、(こぼ)して、まぁだらしのないこと。裾も何もびっしょりになって、それさえ着替えるものもありませんから、そのままの(なり)で、湿っぽくてかび臭い畳に座りますが、気味が悪いので(かかと)を浮かしてさ、こんな格好であなたとお話しをする。ね、この口で言っちゃおかしいけれど、ま、あなたもご存じだから言いますけれどね、そりゃ私は本も読みました、字も習いました。人形の首くらいなら絵も描きます。フランス語も真似くらいはしますけれども、それが何の役に立ちますもんですか。結局(つまり)言ってみりゃ、あなたはちっとはものを知っている女が、日雇い人夫やなんぞの妻になっちゃぁ気の毒だ、可哀想だ、つまらないというようにお思いになって……それでこのXもお書きになったようなものですけれど、それはね、お机に対って中身の無い家政学でも読んでいる時の考えですよ。

 こんな風になってはね、せめて長屋並のおかみさんづきあいでも出来る方がどれだけ良いか知れません。毎朝ご飯を炊くてっちゃぁ時も、亭主に手助けをしてもらうようでは、ほんとに駄目なんですもの。着物だって仕立て下ろしの絹ものばかり手にかけていても、つぎはぎが出来ないようじゃ困るんですよ、お須賀さん。

 情けない話になりますけどね、亭主にぼろを着させたままなら、我が身も釘裂(くぎざき)(つくろ)ったまま。ほんと、どんなにみっともないか分かりません。

 本が読めたって、お客様の名刺一つ読む訳でもなし、字が書けたって、あなた、二年も三年もお友達の所へ年賀状一枚書いて出せないような身になっては、何にもなりゃしないんですから。私ゃ(かえ)って亭主に恥ずかしくって、気の毒でなりません。力がありゃ荷車の後押しでもしますがね。働き口がありゃ内職でもして、おかず代だけでも稼げたら亭主もどんなに喜ぶか知れませんのに、どうでしょう、ちょっと不規則な食事をすれば胃が悪くなる、元結(もっとい)でも()ろうとすればリウマチに(さわ)ります。寒けりゃ寒いで風邪を引くし、気候が悪ければ頭が痛くなるって、こんな厄介な、病身で甲斐性なしの怠け者を日雇いの家に置いてどうなりましょう。本当に気の毒でなりません。それなのに厭な顔一つ見せないで、優しくして可愛がってくれますもの。日雇い人夫だって、何だって、私にゃ過ぎた亭主ですよ。

 あんな学問さえしなかったら、ちっとは気楽に暮らせるでしょうに、なまじっかそれが邪魔になって、時々は堪らなく、キ、キと胸へ何だか込み上げるの。なるたけもう忘れてしまいたいと思ってね、(そば)にゃ紙の切れ端一枚置かないようにしているもんですから、最近ではね、もう何もかもほとんど忘れてしまって、お須賀さん、見たって、あなたちょっと見たって分かるでしょう。大分鈍になりましたよ」

 女作家はうち沈んだように俯向(うつむ)いたまま物も言わない。主婦(あるじ)は声の調子は変わるけれどもさりげなく(よそお)って、

「ですから、あんなことも出来たんです。あなた、弟様は何かおっしゃりはしませんでしたか。いえね、何も他ではないんですが、この間、古本屋の店であなたの弟様にこのXを戴いた時ですよ。夜分じゃありましたけれども、つい、何なの、お須賀さん、焼き芋を買いに入ったんです。子どもを負ぶってさ。この本を片手に持ってね、いいじゃぁありませんか。おほほ、私は何も知らなかったのですが、お聞きした所では弟様が見ていらっしゃったかも知れませんのね。ちょっと恥ずかしいわ。焼き芋と本だなんて、まだ昔の気分が抜け切れないみたい」

 と、淋しい笑顔を見せた。それは本当に淋しい笑顔であった。元々愛嬌には乏しい人で、眉は凜々しく、口は締まっているけれど、色は抜けるように白いけれど、気高くは見えるけれども、(ひど)くやつれた人の笑顔は淋しかった。


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