(6)
「聞いたか? ブレイ様があの娘の障害を取り除かれたそうだ」
「さすがはブレイ様だな」
「これでつつがなく儀式を迎えられる」
昼時を前にした廊下で立ち話をしていた大人たちが、通り過ぎるグラノをちらりと見やった。
「それに比べて……」
「本当に役に立たん奴だ」
「何もかもブレイ様に押しつけて」
内緒話なら聞こえないようにやれよと心の中で悪態をつきながら、ずんずん歩く。しかしずっと小さな子供までが馬鹿にした目でひそひそ笑いをしているのに我慢できなくなり、グラノは子供を蹴飛ばした。
転んだ子供がわっと泣き、周囲のまなざしがますます非難の色をおびる。
「そんなところにいるのが悪いんだろ。クソが」
子供の親に怒鳴られる前に、グラノはさっさと場を離れた。
屋敷内も町も、ブレイの功績についての話題でもちきりだった。きっかけをつくったのは自分なのに、誰一人言及しない。
自分がオルトを痛めつけたから、リリーは交換に同意したのだ。ブレイが来なければ、あれは自分の手柄だったはずだ。
オルトの目の前でリリーを辱めることも、リリーが隠し持っていた首飾りを暴くこともできなかった結果に、グラノは憤った。しかもブレイの命令で、無防備になったリリーに近づく機会まで失ったのだ。
本当にむかつく。自分の楽しみを横取りしたブレイと、ブレイを大仰なほど崇拝する連中のすべてに腹が立って仕方がなかった。
舌打ちして地面に唾を吐いたところで、視線を感じて顔を上げる。回廊の柱のそばにモスカがいた。
話す価値さえないとばかりに背を向けるモスカに、グラノはにやりとした。
「おい、モスカ」
呼びかけたがモスカはふり返らない。
「無視かよ。さすがは『継承者』様の妻になる女だな。すばらしく高慢だ」
グラノは一気に追いつくと、モスカの肩をつかんで壁に押しつけた。
いつもは感情のこもらない褐色の瞳が珍しく揺れている。その手が腹をかばっていることに気づき、グラノは鼻で嗤った。
「心配するな。腹の子をつぶそうなんて思ってねえよ。お前にとっても一族にとっても、命より大事なものだろうが」
まさか自分の口からこういう言葉が出るとは予想していなかったのか、モスカが意外そうな顔つきになる。乱暴な行為に及ばないと聞いてほっとした様子のモスカに、グラノは続けた。
「だってお前はその一人しか産めないかもしれないんだからな」
「どういう意味?」
今度は眉間にしわを寄せている。妊娠がわかってから、モスカはずいぶん表情が豊かになった。全身から幸福感を垂れ流しているモスカに吐き気がするほど苛立っていたグラノは、口角を上げた。
「あれ? 知らないのか。ブレイはフォルマを妾にするつもりだぞ。そうなったらお前には見向きもしなくなる」
気持ちがいいほど顔色を変えたモスカに、グラノは顔を寄せてささやいた。
「ブレイが優しいのも子供が生まれるまでだ。お前はブレイとフォルマがいちゃついているそばで、たった一人で跡継ぎを大切に大切に育てなきゃいけないんだよ」
目を見開き、唇をわななかせながら、それでも腹を守るように手を置いているモスカの耳元で、「今のうちにせいぜい甘えておけよ、奥様」とグラノは低く笑った。
いい憂さ晴らしに、ささくれていた心が一時的に浮上する。にぎったこぶしを震わせている新しいおもちゃを最後に一瞥し、グラノは鼻歌まじりにきびすを返した。
「いらっしゃいませ、ブレイ様」
弓を専門に扱う武具屋の扉を開けて入ったブレイに、棚の商品整理をしていた壮年の店主がさっと歩み寄った。
「何かご入用でしたらお呼びくだされば、こちらから伺いましたのに」
「ちょっと寄っただけだから、気にしないでくれ」
ブレイの返事に、店主は「承知いたしました」と恭しく一礼し、そばを離れた。こういうときはかまわなくていいと伝えているので、店主もブレイを注視しないよう仕事に戻る。
ブレイはゆっくりと店内を見て回り、いくつか新しい商品が入荷していることに気づいた。
ここにフォルマを連れてきたのがもう何年も前のように感じられる。キルクルス・レーンに会いにいったとき、ちらとでも姿を見ることができればよかったが、さすがに早朝では期待できるはずもなかった。
自分が抜けた後はフォルマが弓専攻一回生の代表になったという。誰とでも気さくに話す彼女ならきっと、皆をうまくまとめるだろう。ただ、そこに自分の居場所はない。同期生たちがフォルマを囲んで談笑していると想像するだけで、苛立ちや悲しみがこみあげてきた。
天空神の紋章の首飾りを持つリリーと接触すれば刺激が起きた。キルクルス・レーンと対面したときもずっと体がぞわぞわして落ち着かなかった。でも、あちら側に立つフォルマとは触れ合っても不快感がない。直接的な加護がないから反発しないのだというだけでは片付けられない心地よさがあった。
あの日、治療室に連れていくと言って手を引かれたとき、初めて人を温かいと感じた。つないだ手を放したくないと思ったのだ。
一目でいい、会いたい。声が聞きたい。でも一度接近すれば、きっと物足りなさが加速してしまう。
だから決断した。
(フォルマ、僕は……)
そのとき客を装った男が一人、店に入ってきた。男はブレイを見つけると目礼し、店主に何か小声で話した。
「ブレイ様、奥へ」と店主が声をかける。ブレイが勘定台の奥の部屋に移ると同時に、あらたに店の扉が開く音がした。
「いらっしゃいませ」
冷静な口調の店主に何者かが質問をしている。途切れ途切れに聞こえてきたのは、行方不明の少年と少女を見なかったかという内容だった。
似顔絵でも見せられたのか、知らないと店主が答える。
「家出か何かですか?」
「最後に彼らと会った者たちの話では、少年が少女を連れ去ったらしい」
お役に立てずすみませんとあやまる店主に、「もしそれらしき子を見かけたら警庁へ連絡してくれ」と告げて声の主が去る。しばらくして、もう大丈夫ですと店主が扉をたたいた。
「警兵か」
ブレイの問いかけに店主はうなずいた。
「この町にも探索の手がのびてきたようです」
まだ警兵がうろついているのでどうぞと差し出された外套を着てブレイが店を出たところで、半透明の鳥が頭上を飛び過ぎた。
毎日のように同じ進路をたどる風の神の使いを召喚しているのは、リリーの父親だろう。
リリーを乗せた馬車が通った道をなぞる正確さには本当に驚嘆する。もし屋敷全体に結界をはっていれば、即座に突きとめられていたに違いない。
今彼らが監禁されている場所は風の神の使いが感知しにくい地下で、目くらましの術もかけている。だから二人がそこにいると確信して突撃でもされないかぎり、御使いに見つかることはない。
今日もまた御使いは途中でリリーの気配を見失ったらしく、しばし周囲をさまよって首都のほうへ滑空していった。
半透明の美しい鳥が完全に遠ざかるのを待って屋敷に戻ったブレイは、回廊の柱の陰でグラノとモスカが向き合っているのを見た。
雑談という雰囲気ではない。グラノは明らかに悪意のある笑みを浮かべて何かささやき、モスカを置いて去った。
モスカはうつむき、上着のすそをにぎりしめている。今度はモスカにあたりだしたのかとブレイは嘆息し、モスカに近づいた。
はっと顔を上げたモスカは、今にも倒れそうなほど青ざめていた。
「調子がよくないならゆっくり休んでおきなよ」
自室へ帰るよううながしたブレイは、こわばっているモスカに瞳をすがめた。
「グラノに何を言われたの?」
モスカは口ごもり、結局かぶりを振ると伏し目がちに一人歩きだした。少し迷ったが、ブレイも追うことはせず自分の部屋へと爪先を向けた。
地下牢で、オルトは手の内にある天空神の紋章の首飾りをじっと見つめていた。
リリーは隣に座り、ブレイがくれた暇つぶしの書物を灯りのもとで読んでいる。リリーが首飾りを外したことであちら側の警戒も解けたのか、あるいは儀式の日までの最後の時間を穏やかに過ごさせようという情けか、無茶でない要求は比較的通るようになった。
ブレイの機転で首飾りはこっそり返してもらったものの、リリーの取引をとめられなかったことにオルトは落ち込んだ。
自分のためにリリーはこれを手放したのだ。ひどいけがを負った自分を水の法で治そうと。
もし頼んだ相手がグラノであれば、今頃リリーも無事ではすまなかっただろう。
リリーの身を守る大事なものなのにと後で叱ったが、リリーはただ微笑して文字を書いた。
――オルトは私がつらかったとき、そばで支えてくれた。だから今度は私の番
当たり前だと言わんばかりの返事に、胸がうずいた。
母親をあやうく死なせてしまうところだったとふさぎ込んでいたリリーをなぐさめ励ましたのは、また笑えるようになってほしかったからだ。
でも失うものがなかったあの頃の自分と違い、リリーは今回、絶対に差し出してはいけないものを交換に使った。法術を使えないリリーを闇の下僕たちから守る唯一のものを。
――みんなが来てくれるから、一緒に帰ろうね
身を挺してかばうリリーの背中が何よりもまぶしくて。自分のことをどうでもいい存在だと考えていないのが嬉しくて……。
オルトの思考はそこで中断した。リリーがはっとしたさまでポケットに手を突っ込んだのだ。
頬を上気させたリリーは、まるで耳をすましているかのようにじっとしている。交信の相手が誰かわかり、オルトは目をそらした。
リリーと自分の関係は、特別であって特別ではない。長い年月をかけて結んだつながりの中にあるのは友愛だ。
そこに異性としての形はない。ソールがいるかぎり、リリーの気持ちがこちらへ傾くことはないだろう。
『オーキュスの青い羽根』を媒介にしたやり取りが終了したらしく、リリーが腕に触れてきた。
「ソールは何て?」
――儀式の直前に救出に向かうって
ブレイがキルクルスと秘密裏に会ったと聞いたときは驚いたが、便宜をはかってくれているのは確かなので、リリーはブレイを信じることにしたようだ。そのブレイから教えられた儀式の詳細を昨夜ソールに伝え、ソールたちが作戦を練っていた。
ブレイの話によると、屋敷の出入口に置かれた鉄門は内側からしか開閉できない仕組みになっているという。もちろん防護の法術がかけられているので、一回や二回攻撃をくらった程度ではびくともしない。一度門が閉じられれば屋敷全体に防御の力が広がるため、この門を突破できなければ逃走は失敗に終わると言われた。
リリーの声を奪った薬については、現在リリーの父親が不眠不休で解毒剤を開発中だという。彼なら必ず成し遂げるはずだから、自分の任務はただ一つ――皆と合流するまでリリーを守りきることだ。
何としても脱出する。たとえ自分の体がちぎれようと、リリーだけはキュグニー夫妻と仲間のもとへ帰す。
そして無事に戻ったら、おそらく夢と同じようにリリーはソールに抱き着いて……。
――オルト?
リリーが首をかしげる。自分の名を刻む唇に吸い寄せられそうになり、オルトは「何でもない」とごまかした。
「早くみんなに会いたいよな」
返事の代わりに、リリーが自分の肩に頭をこつんとぶつける。こんな状況なのに、ちょとしたしぐさにも愛しさを覚えてしまうのが苦しくて、オルトはこぶしをにぎった。
“もしリリーがオルト以外の人を好きになったら、ちゃんと応援してあげられる?”
あのとき考えたくないと答えた自分に、「リリーが大切なんだよね?」とセピアはさらに尋ねた。
大切だから放したくなかった。応援などできるわけがないと。
でも今、リリーを助けるために誰かに協力をあおぐとしたら、真っ先に頭に浮かぶのはソールだった。
冒険ではいつも全体を見渡せる後方を任せ、時には肩を並べて武器を振るっていた頼もしい味方。
唯一、何度対戦しても勝敗がつかない強敵。
ソールがとんでもなく嫌な奴ならどんなによかっただろう。あんな男はやめておけと、自信を持って全力でとめられるほどひどい人間だったら、自分は負けなかった。
あるいは二人が想い合っていなければ、よき対戦相手として、信頼できる戦友として、何の葛藤もなく付き合っていけたのに。
(お前のことだから、きっと一番に来るんだろう?)
リリーに何か起きたときはいつも近くにいて、対応が早かった。どうしてそんなに目敏いんだともやついていたが――。
オルトはため息まじりに自嘲の笑みをこぼした。一番脅威になる存在を、自分は誰よりもあてにしているのだ。
ソールにしてみればずいぶん勝手な話だろう。普通なら喧嘩になってもおかしくはない理不尽な要求を、仲間内で揉めないようできるかぎりのもうと自制していたに違いない。
自分には到底まねできない。己の欲を満たすことを優先し、邪魔な者を遠ざけようとする自分には。
(すまん、ソール……)
利己的な言動も、お前の優しさにすがるのも今回で最後にする。だから、リリーを助けるために力を貸してくれ。
そして首飾りに額を押し当て、オルトは天空神に祈った。
どうか、リリーをここから安全な場所へ連れ出せますようにと。




